要するに毎日がゼロでゼロにまみれているという話

賽の河原より過酷じゃないか、そもそも石の積み方がわからないんだから

積んだものを壊されるのはつらい、それは火を見るより明らかなことだ。じゃあ積み方を知らない人間はどうすればいいんだろう。重なったものを崩しに来るはずの鬼も戸惑っている。なんにもない。ここにはなんにも蓄積されていない。生きれば生きるほど虚ろだ。ゼロ、ゼロ、ゼロ。描かれた輪をくぐるようにして過ごしてきたこの場所に残っているものがないことくらい、気づけそうなものだったろうに、と思う。しかもたまらなく寂しい上に許されないことだときた。もう無理じゃないか。はいおしまい。また来世。

 

もっと頑張らなくてはいけないと言われ続け、頑張り方を教えてもらえなかったからこんなブログが開設されてしまった。じゃあわたしが間違っているのかというとそんなこともない。自分の思うところの正しさの形や未加工の感情がここにはきちんとある。「思うところ」という言葉はいつでもたぶん逃げなのだろうが、そればかりは許してもらわなくてはいけない。

 

いつから、こんな生き物になってしまったんだろう。パソコンを目の前にしてそんなことを考える。わたしが世間の言うところの良い学生なら、夕飯後にしていることはTwitterでもブログ更新でもなく予習復習のはずだ。この時間ならもう明日の準備を終えて布団に入っているのかもしれない。きっとそうだ。そういうものになりたいのかどうかは、わからない。ただそれでひとつ、学生として世界の枠組に収まることができるのならぜんぜん無駄なことではなくむしろあるべき姿だとは思う。実際に推奨されている姿勢なのは確かなことで、ということはわたしたちは用意された枠組にはまっている状態ではじめて正しく美しいと評価される。のか。じゃあわたしはそもそも品評会に参加する権利が得られない。予選に出られない。寒風吹きすさぶ中おぼつかない足取りで彷徨うしかない、枠にどうはまったらいいかがわからないのだ。文字は水面に浮かんだように歪んで、なにも頭になど入らない。曲線や直線が交わって異国の文字が連なって触れてはいけない物質がこぼれて、それらはわたしに干渉しない。もっとずっと正しい人間に寄り添った形で進んでしまう。そうやって取り残されて当てもなく歩いた先に三途の川があったようで、賽の河原にうずくまると鬼がやってきて石を積めと怒鳴る。やり方がわかりませんと言うと最初は困った顔をして、次に諭して、最後は金棒でぶん殴る。ぶん殴られてもなにも喋ることができない。冷たい世界はわたしから声を奪ってしまった。穏やかな世界を守るための決断はいつだって、出来損ないなど救ってくれない。そういう風にできている。

 

死んでしまうかなんの心配もなく生きるか、指ぱっちんひとつでどちらでも選べるとして。『なんの心配もなく生きる』というフレーズはまったく現実味を帯びていないものであることに気付く。わたしだからそうなのか、あらゆる人間がそうなのかはわからない。わからないことが多すぎる。わからないことを紛らわすことだけが巧くなって、それだけでもなんとなく呼吸を続けられると知ってしまってだめになった。なんの心配もなく生きることはできない、わたしは。わたしは全能ではない。指ぱっちんはきっとなにも救うことはなく、ただ誰もいない部屋に虚ろに響くだけだ。それでも無理やり意味を持たせた指ぱっちんの音が聞こえている間だけはなにかを重ねてゆける気がして、もうずっと、こうなのだろうと思う。

なにが『こう』って、無様に縋るものを探す姿に決まっている。