探してやってよ


きょうは一日中心臓が痛かった。時間が経つにつれ悪化した。馬鹿だなと思う。できない約束が脳を往来して、ずっと錯乱していた。まともに振る舞えていたとは思うけれど、結局友人各位に余計な心配をさせている。心配されることは幸せなことだろう。受け取り方が下手で申し訳ない。ひとに心配されたくない。相応のものを返せないからだ。わたしがわたしの級友なら、きっと放っておくだろう。そいつは誰にもなにも与えることができない、と。


正直であること、嘘をつかずにいることはとても恐ろしい。わたしは自分を信用しろと誰かに怒鳴ることができない。まずそれより前に、きっとわたしがお前を信用していないから。それは、自衛だ。自分を守ろうとしているのはわたしも同じで、誰かに何かをきちんと伝えようとしないのも口八丁手八丁でその場しのぎの誤魔化しばかりしているのも全部傷つきたくないからなのだろう。そういうところは反吐が出るほど嫌いで、なにかのために自分を投げ出せる人間を本当に美しいと思う。誰かのために生きることができる人間のことも。


自分以外のもののために全てを捨てられるほどわたしたちは強くないだろうし、自分の傷だけを避けられるほど小狡くもないはずだ。それでも、明らかに小狡い方にメーターが振れていることくらいわかる。わたしのせいにならなければ何でもいい。わたしのせいになるなら絶対にだめだ。『でもそれはわたしのせいじゃない』と言いながらいつも怒っていた頃から何も変わっていない。
一度転んだらもう終わりだった。転び続けないで走ることにしか意味はなかった。手を差し伸べられたら終わりなのだ。そちら側の人間になってしまっては。ずっと、誰かに助けられて正しく歩んでいく人間がひどく憎かった。お前はもう躓いたのに、どうしてまだここにいられる?手の取り方を知らないわたしは、立ち上がれないまま蹲っているのに。親切な誰かが声をかけてくれても、わたしにはなにもできない。声の出し方を忘れている。自力でもう一度走り出そうとしているうちに、足は錆びつき、喉は潰れて、勝手に不自由になって勝手に卑屈になっていく。救いようがない。

たとえば、こういう話がある。
明るくて友達の多いふたりの子供がいる。片方はとても絵を描くのが上手で、片方は性格の他にこれといった取り柄がない。
前者の子供の『いいところ』を子供に探させたら、そのほとんどが最初に『絵が上手い』と答えた。後者の子供については、『明るくてみんなと仲がいい』という意見が多かった。
能力は、人格より先に印象に残ってしまう。『絵が上手い子』は明るかろうが暗かろうがそう評される。そしてその先を探そうとしない人間ばかりが周りにいると、結構な確率で本人にとってその先がきつくなる。技能を失うことを恐れる。そこ以外に自分を見つけられなくなる。それに対して、『きみは明るい子だね』という肯定を受けてきた人間の方が柔軟性を持てる。
根底にあるものを見つけて認めてやることは、能力を褒めることより難しい。しかし、見つけてやらなくてはいけない。今持っている能力を伸ばしてやるには、そちらの方が正しいのだ。今なら、そう思える。

優しさを信じることができるというのは、おそらく当たり前に備わっているはずの最も大切な才能だろう。あなたは多彩なひとだねとよく言われる。褒められているのだろうし、そう思ってくれることは嬉しい。ただ自分では、その全てを『代わり』なのだと思う。自分の人格を愛せないわたしが、都合よく愛されるために磨いてきたもの。誰かよりもなにかができれば、振り向くひとは増える。振り向いただれかの手を振り払うところまでがワンセットだ。最悪のパターン。一周回って笑えてくる。何がしたいんだよ。
代わりのものに縋りながら、他になにも出来ないことを呪う。立ち上がり方を知っていれば、他と同じように走れればそれでよかった。けれどもう今更手にしたものを捨てることもできずにいる。


文字でしか肝心なことを語ることができない。口に出すのはどうでもいいことだけでいい。日常において言葉は空疎だ。空疎なものに乗せた感情は、墜落して潰える。

愛に粉糖

最近はご飯を食べることが結構きついので笑える。昼休みの空気に便乗してとりあえず一食食べたらもうなにもいらない。何かを口にする度、わたしを構成するものが少しずつ変わっていく。ゆっくりとそれでも確かに、わたしはわたしでなくなってゆくのだろう。それはとても、苦しいことかもしれない。


ついこの間バレンタインというイベントがあって、わたしの恋人は随分手の込んだものを贈ってくれた。愛されているということが物質になってわたしに迫ってきた。ふいに戦慄を覚えた。わたしはこれを口にしてもいいのだろうか?
冗談めかして楽しみにしてるよと言っておいたけれど、今思えばなにかから逃れようとしていた気がする。愛される資格。それを持っていると思えるなら、純粋な気持ちで受け取ってためらいなく感想を言ってやれるのだろう。口に放り込んだ一粒が重く、沈みこんでいく。その日の昼はそれしか食べられなかった。帰ってからも水すら飲めなかった。愛とはかくも、ひとを満たしてしまうものだ。それを享受するための免許を、提示できる自信がない。愛によって作り替えられていく自分が、清潔すぎて恐ろしい。


かつて贈られたものの中にはとんでもないものもあったりして、まあその話は正直面白いのだが、愛は簡単に歪んでしまうものなのだな、と、つくづく思う。誰もが歪みの種を持っているのか、種蒔きと栽培を意図せず行ってしまう人間がいるのか。そもそも真っ直ぐな愛とはなんなのか。時として真っ直ぐなものが一番取り扱いに困ったりする。曲がっていないものはその分深くまで突き刺さる。出血多量で死ぬので決して適当に抜いてはならない。ひどい話だと思う。
それでも、受け取り手が悪いのだろう。愛があるだけで満足すればいい。愛されたいと嘆く声はよく聞こえてくるけれど、それに比べたら愛が多くて重たく思えてしまうなんて贅沢にも程がある。荷物が重いのではなくて、わたしの足腰が弱くて支えきれないだけなのだ。それで荷物を減らせと文句を言うのは忍びない。そこにいたいと願ったのはわたしなのだから。


気づかないでいられるということは才能であり、恵まれた体質だと思う。
尊ぶべき愛情が歪まないよう、見守る必要がある。愛を原動力として行く先の葉を取り除き、枝を落とし、光の届く方へ導いていく。その先にあるものが、わたしであってはならない。残念ながら、わたしはそこに棲めないのだ。
言いたいことはだいたい黙るべきことで、黙っていることがことを上手く運んでくれる。それでいいし、そうするつもりでいる。屈折しない光に憧れて、自分が水中に棲んでいることを忘れてしまった。手を伸ばしてはいけなかったのだ。その光に触れられるのは、天に召された時だけだ。知っていたはずだったのになあ。ぼんやり思っても涙が枯れている。もしかしたら泣いているのかもしれない。ここは水中だから、わたしにはそれさえわからない。何が嘘なのか教えて欲しい。ついでに、何が真実なのかも。


捧げられる愛に身を委ねていれば、いずれ違う生き物になれるのかもしれない。汚れない愛だけを与えられるまま貪っていれば。それでも拒絶反応は起こるだろう。光の届かない深い水底へ、戻りたくなる。光とは見上げるものだったと笑っているくらいが結局のところ丁度いい、なんて笑う。掬い上げないで。なにも見えないままでいい。本当はあまりにも醜い形をしているのだ。なにを食べたって、どれだけ愛されたって、ここにいることしかできない。確かに愛に蝕まれていく感覚だけが残る。作り替えられ、それでもなにかになることはできない。蓄積する愛は病巣にしかならない。どんどん身体は重たくなって、わたしは死んでしまうのだ。
そして初めて、触れたかったものに触れる。それはそれで、幸せかもしれないけれど。

許し許され生き腐れ

 

最近、頭に触れられることが急に苦手になった。前はそうでもなかったのだが、なぜか突然。ぞっとするほど恐ろしく、手を振り払わなければ気が済まない。思えば頭に限らず、触れられることが全体的にだめになってきたようにも思える。

わたしから触れにいくことは構わないのに逆を受け容れられないというのは実に虫のいい話だと思う。双方向の矢印が自分のせいで成り立たないことをできるだけ避けていたい。べつに相手側からの矢印がない分には気にせずいられるが、自分から矢印を提供できないことはひどく耐え難い。

 

それは結局、最終的に相手を責めることができないからだと思う。『おまえが許しているのにわたしが許していない』という状態では、どうしても自分が劣って見える。寛大さで負けているような気分になる。そういう発想に至る時点で心はさもしいのだろうが、精一杯許せるようにいようと努めるそのこと自体は悪いことではあるまい(そう思っていたい)。相手もわたしも共に許すことができているならもちろん理想的だろう。しかしそれでは物足りない。『おまえが許していないのにわたしが許している』という状態を望むことをやめられない。優位性はいつも甘美で、まして人徳で勝るならそれ以上に決定的なものはないように思う。常に誰かを叩くことができるよう、許した分だけ強い武器を携える。まったくはずれた用途のために善人でありたいと願う。しかし善は善だ、偽物の善は偽物なのだから善ではない。かえって私たちは、純粋な善を求めるかもしれない。見えない刃を研ぐために。

 

なにかひとつ、だれかひとり素晴らしいものがあり、その周りは劣等感に苛まれ自滅するもの、無意識下にやがて下に見てやろうと画策し鍛錬を重ねるもの、崇拝して広い意味での同一化をはかるものに分かれる気がする。(あるいはまったく興味を示さないものもあるだろうが、それはいいとして)脆い、と思う。『ひとりでは生きられない』というフレーズは本当にさまざまな読み方ができると思っているのだが、『まわりで生きている人間の中に自分を位置づけなくては気が済まない』というのもそのうちのひとつだと感じる。その位置づけからどうしても逃れたくて、その位置づけにどうしても縋りたい。それは、人間の愛おしさにカウントできるだろうか。在り方をすべて愛すべきものであるとして、わたしは、限りなくすべてを愛していることができるだろうか。

 

いつかあなたを殺せるように、最善でありたい。許すことは許されることととても近いように思う。許されるために、許す。背徳的に善行を重ねて、生きながら腐敗していく。剥製のように静かに美しくあれるのならいいけれど、ただ表面は瑞々しく光り、中身だけが泥に似て色を失い崩れていく。なにかを許せないことがとても恐ろしい。その分だけ、持てる強さを失っているように思えてならないのだ。

際限なく武装したい生き物なのだ、わたしは。わたしたちは。『わたしたち』とぼかすことは甘えか、希望か。特に知りたくはない。きっと、どちらにも真実は宿っている。