あなたはあなた、ポテトはポテト

 

当方受験生でそれなりに忙しく日々を送っているが、今日もわたしは午後に目覚めた。あいにく、生まれた瞬間から夜型だ。ブランチとも呼べないほどのハッシュドポテトを二つ食べて、なくなってしまったケチャップに気付く。外はとても寒い。

 

今とはつまり正念場で、年の瀬とも言う。今年は、そうだなあ。思い出すことと云えば、わたしがあくせく机に向かっているうちにKERAが店頭から消えていたことなどだろうか。Zipperもいなくなってしまうそうで、パレットから大切な色が失われていくような気がしている。この虚ろはなんだろう。教えておじいさん。

 

わたしはギリギリ1000年代に生まれ、あと十年早く生まれたかったと何度も思ってきた。より個々を重んじる時代になって久しいのだろうと思う。尖っていることも丸くあることも、いい個性。きっと誰もが生きやすい世界になりつつあり、わたしも風潮の恩恵を受けてきた節がたくさんある。なのに寂しいのはなぜ?

 

あなたはあなた、わたしはわたし。それでいい。それ”が”いいのだ。今は。

而して最後の防衛手段であり、必殺の一撃だろう。だってそんなこと言われたら、何も言えない。わたしはあなたに何も言うことができない。双方向の愛なんて、ますます奇跡めいたものになってしまう。頭のどこかをぼんやり騙され、友人やら恋人やらさまざまな幻想へと簡単に自分を昇華できる時代はもう終わってしまったのかなあ。

こんなにそれぞれのやり方を重んじて、尊重して、優しく笑っている。喜ばしくて崇高で、とても哀しい。誰もが神様になろうとする。あなたがあなたであることは、もう充分にわかった。それを前提として、ひとを許さなければいけない。そして、愛さなくてはいけない。あなたがあなたであることに、わたしの入る余地はありますか。あるならわたしを愛してください。ないならなるべく傷つけないように、わたしを遠ざけてください。

 

やがて人は誰とも会わなくなってしまうのだろうか。他者は質感を伴わないものになってしまうのだろうか。そんな小学生みたいな不安に苛まれることが未だにある。そうなれば、人は世界の存続を望むだろうか、終末を淡々と待つのだろうか。ああ、二つの勢力が争って最期の日を早めてしまうのか。きっとそうだ。多様化と肯定がどれほど美しいものとされても、わたしたちは争うことを忘れられない。それが小さなものであれ、大きなものであれ。だったら今くらい、過剰に許しあってもいいのかもしれないな。

今いる人が死んでしまったら人間の文明は終わりだよ、なんて、言われていなくてよかった。絶望の淵に立ってしまったら、それ以上の絶望を考えつかなくなるから。

 

平成の足音にはラルゴの指示が下り、穏やかに最終楽章が訪れようとしている。

相変わらず英語という教科は眠剤のように作用するけれど、びっくりするほど健康なままで冬になった。来年の春、わたしはどこにいるのだろう。もし何もかも上手くいったとして、死のうとしていたら何の意味もないな。ケチャップでも買って帰るといい。あたたかな春風が吹く日を選んで。