マイ・ディア

行きたい場所を、いつも諦めてきた。
どこに行く?誰と行く?いつ帰る?他にやることは?そんなところに行っている場合? わざわざひとを説得するのがほんとうに嫌で嫌で、じゃあもういいよと片付ける。どうせそんなに行きたくなかったんでしょう、と言われるのが昔から大嫌いだった。お前には他にやることがあると示されることももう勘弁してくれと思っていた。他の子とは違うのだと信じていたかったのだろう。ひどい期待と過信。あまりに夢見がちにわたしの未来を語る姿が、ただ苦しい。そして、目上の者の幻想は尊ぶべきものだと考えるどん底のわたしは嘘を覚えた。今でも外出理由は8割方嘘である。本当なのは「学校に行く」くらいのものだ。なぜ嘘をつくのか、と問われることが増えたけれど、逆になぜわからないのだろうと不思議に思う。言わなければわからない、と言われた時は冗談かと思った。まあ、それが冗談ならこんな風にはなっていないんだろうが。
ただひたすらにわたしの居場所は家しかなく、そこにいさえすればだいたいは許されていた。今思えば顔の形変わりかけるほどぶん殴るのはどう考えてもおかしいけれど、それでも許されていたのだと思う。「未来を想って」という言葉は都合よく使われるが、そのせいで今死んでしまったらどう思ったんだろうなあ。そんなつもりはなかったと言うのだろうな。そんなつもりがなくたって、造られるものは現実である。


期待されなくなったら終わり、言われているうちが花。とはよく言われるけれども、いやわたしに期待を抱いてくれているのはお前さん方だけじゃねえぜという話だ。幼い頃はもちろんその通りだろうが、10代も折り返してしまえばそれは通用しなくなる。むしろ血縁のない者の方が客観的に、身の丈に合った期待を抱いてくれることだってある。そういったひとの言葉の方が確実に励みになり、成長の糧となっていくものだ。
だがあのひとたちは生殺与奪を握っている。その気になれば食糧源を断ち、金銭を断ち、屋根のある場所から追放することができる。それがまあうまいことやるもんで、家事はきっちり仕込んでも、雨風凌ぎ穏やかに暮らすために必要な書類や金の払い方云々に関しては一切触れさせていなかったりする。絶妙なラインでひとりではろくに生きていけないようにされている。生かすも殺すも一存だ。しかしそれをされては、庇護下にある者たちは意思の一切を否定されることにもなりかねない。それでいいはずがないよ。こうしなかったらお前は暮らしていけなくなるがそれでもいいのか、行きたい場所にも行けなくなるしやりたいことも出来なくなるぞ。なんて、面白いだけじゃないか。あなたがいるからどこにも行けないしなにもできないというのに。だがしかし常に分は向こうにある。わたしはいつも命懸けだ。生きるため必死だ。しかし所有物でも依り代でもない、わたしとは個である。お陰さまで死にたいけれどかえって死んではいけない気もしてくる。いつか死んだこのひとと地獄で会うのは御免だからだ。


「誰が金払ってると思ってるんだ」だけは、絶対に言ってはならない。ならば被扶養者はどうすればいい?生かしてくれるひとのために、思い通り動かなくてはいけないのか?動かなくてはならないのだろう。実際。そうしなければ人権はますます削られ、同じ台詞が繰り返される。だから嘘が上手くなる。誤魔化すことばかり覚える。だったらなにも言われないくらいに自分を高めればいい、悔しがって泣いてでも這い上がって来ればいい?それはひとを育てるやり方じゃない。素質がある人間を見つけてさらに篩にかける方法でしかないのだ。
「他のひとがあんまりにも怒っていたり必死になっていたりどうにかこうにか期待していたりするのを見ると、かえって冷静になってしまうんだよ。わかる?」と訊いたことがあったけれど、「自分はそうではない、お前は間違っている」としか返ってこなかった。落とされるほど貶されるほど、ひととは上に向かうものなのだと。それだけが真実で、どうやら手前の感じているものなどは欺瞞でしかないらしい。笑ってしまった。もう全部わたしとズレている。ひとの感覚を尊重しない相手の抱く勝手な幻想を尊重しているわたしが馬鹿のようではないか。当然同じ人間ではないから、共感し難いこともあるだろう。しかし自分に理解できないというだけでは、他方が間違っているという理由にはならない。それを説明してみたところで、「飯」の一言だ。「お前は本当にひとの話を聞かない」「お前は本当にひとの助言を受け取らない」「お前はあまりに自分勝手だ」とよく言われるけれどその度にあなたもね、あなたもね、あなたもねと思うわたしがいる。自分はそんなことはないと信じて疑っていないのが可笑しい、わたしはあなたの血を引いているんだよ?
経験値のある人間がとにかく優れていて、肝心な場所でわたしに発言権はない。ありがちな「子供っていうのはいつまで経っても手のかかる子供に見えるんですねえ」などというのんびり温かい言い回しさえ恐ろしくて仕方ない。わたしは永遠に間違っていて、出来損ないであるが故嘘をつき続けなくてはならない。癖になった嘘を責められながらまたその場を嘘でやり過ごすのか。嘘に対してずいぶん狂ったこの感覚は二度と治らないのか。一生まともになれない気さえしてくる。

「強い心で向き合う」なんていう爽やかなことが簡単にできたらなあ、いろいろ言ったって結局わたしが悪いんだろう。そもそも出来損ないになってしまったのがいけない。真っ直ぐだった幼い頃から道を違わず進んでくれば、余計な場所を見ずにひたすら愚直に疑うことすらせず歩んでくれば理想通り育ったのだ、きっと。生きててすみません。生きててすみません。