愛に粉糖

最近はご飯を食べることが結構きついので笑える。昼休みの空気に便乗してとりあえず一食食べたらもうなにもいらない。何かを口にする度、わたしを構成するものが少しずつ変わっていく。ゆっくりとそれでも確かに、わたしはわたしでなくなってゆくのだろう。それはとても、苦しいことかもしれない。


ついこの間バレンタインというイベントがあって、わたしの恋人は随分手の込んだものを贈ってくれた。愛されているということが物質になってわたしに迫ってきた。ふいに戦慄を覚えた。わたしはこれを口にしてもいいのだろうか?
冗談めかして楽しみにしてるよと言っておいたけれど、今思えばなにかから逃れようとしていた気がする。愛される資格。それを持っていると思えるなら、純粋な気持ちで受け取ってためらいなく感想を言ってやれるのだろう。口に放り込んだ一粒が重く、沈みこんでいく。その日の昼はそれしか食べられなかった。帰ってからも水すら飲めなかった。愛とはかくも、ひとを満たしてしまうものだ。それを享受するための免許を、提示できる自信がない。愛によって作り替えられていく自分が、清潔すぎて恐ろしい。


かつて贈られたものの中にはとんでもないものもあったりして、まあその話は正直面白いのだが、愛は簡単に歪んでしまうものなのだな、と、つくづく思う。誰もが歪みの種を持っているのか、種蒔きと栽培を意図せず行ってしまう人間がいるのか。そもそも真っ直ぐな愛とはなんなのか。時として真っ直ぐなものが一番取り扱いに困ったりする。曲がっていないものはその分深くまで突き刺さる。出血多量で死ぬので決して適当に抜いてはならない。ひどい話だと思う。
それでも、受け取り手が悪いのだろう。愛があるだけで満足すればいい。愛されたいと嘆く声はよく聞こえてくるけれど、それに比べたら愛が多くて重たく思えてしまうなんて贅沢にも程がある。荷物が重いのではなくて、わたしの足腰が弱くて支えきれないだけなのだ。それで荷物を減らせと文句を言うのは忍びない。そこにいたいと願ったのはわたしなのだから。


気づかないでいられるということは才能であり、恵まれた体質だと思う。
尊ぶべき愛情が歪まないよう、見守る必要がある。愛を原動力として行く先の葉を取り除き、枝を落とし、光の届く方へ導いていく。その先にあるものが、わたしであってはならない。残念ながら、わたしはそこに棲めないのだ。
言いたいことはだいたい黙るべきことで、黙っていることがことを上手く運んでくれる。それでいいし、そうするつもりでいる。屈折しない光に憧れて、自分が水中に棲んでいることを忘れてしまった。手を伸ばしてはいけなかったのだ。その光に触れられるのは、天に召された時だけだ。知っていたはずだったのになあ。ぼんやり思っても涙が枯れている。もしかしたら泣いているのかもしれない。ここは水中だから、わたしにはそれさえわからない。何が嘘なのか教えて欲しい。ついでに、何が真実なのかも。


捧げられる愛に身を委ねていれば、いずれ違う生き物になれるのかもしれない。汚れない愛だけを与えられるまま貪っていれば。それでも拒絶反応は起こるだろう。光の届かない深い水底へ、戻りたくなる。光とは見上げるものだったと笑っているくらいが結局のところ丁度いい、なんて笑う。掬い上げないで。なにも見えないままでいい。本当はあまりにも醜い形をしているのだ。なにを食べたって、どれだけ愛されたって、ここにいることしかできない。確かに愛に蝕まれていく感覚だけが残る。作り替えられ、それでもなにかになることはできない。蓄積する愛は病巣にしかならない。どんどん身体は重たくなって、わたしは死んでしまうのだ。
そして初めて、触れたかったものに触れる。それはそれで、幸せかもしれないけれど。