嘘と言葉の話、愛し子たちのこと

これはどうでもいい話だが、わたしは低血糖症で慢性的な副腎疲労である。コルチゾールがぜんぜん足りていないらしい。過食に陥ってこそいないが食べた分はほとんど保たずに切れてしまう。日中よく寝ていたり夜眠れなかったりするのはそのせいもあるらしい。
ひとりで病院に行って検査に回されて初めて診断がもらえた。今まで嘘をついていたこともバレた。どうして最初からきちんと言わなかったのかと言われた。あたりまえだ、隣に人間がいたら何かしら嘘を織り交ぜないと気が済まない。だったら何のために病院に行くんだろうかと思いながらまた同じことをする。嘘つきはそういう生き物だ。
わたしは病院でも嘘をつく。息をするのと同じように症状をごまかす。筆談にしてくれればいい。回答も紙面で。その方がよっぽどきちんと自分のことを描写できる自信がある。自分がついてきた嘘の積み重ねが、わたしの言葉を空疎なものにしてしまうのだ。自分の口から出る言葉を自分で信用できない。自覚できていない嘘もあるだろう。憶えていない嘘ほどタチの悪いものはない。本人に罪の意識が全くないのだから。ただでさえ希薄なものがゼロになる。零とゼロは違う。


『嘘の自分』というものはどこにもいない。『事実として本心に反している自分』はただの本物だ。ここにはいない誰かの背中を見て、聞こえない声を聞いている。帰れない場所に帰り、戻れない道を戻る。


もう引退した部活の公演を観に行った。
愛し子たちは立派にやっている、隠居冥利に尽きるというものだ。なにか与したことが少しでもあればいい。
たったひとつ自分の言葉が意味を持つ場所は舞台の上であったと思う。日常で放たれれば色を失い消えるものも、台詞として届ければ価値があるように思えた。結局のところ、救われたくて芝居をしていたのだ。どこまでも自分のために、役者をしていたと思う。
一度離れてから再び見たものは輝きを増して見える。どうか自信を持ってほしい、向上し続けてほしい。わたしなんかより何倍も素敵なものを持っている。屍とは超えてゆくものだ。もっとも大人しく墓場で眠るのも退屈なので適宜召喚してくれて構わないがね。死者は寂しがる生き物らしい。わたしの場合、死してなお。
文字を言葉に起こしていくこと、そして脚本は立体物になっていく。光景は何度見ても美しく、愛すべき心の機微がそこにある。受け継がれ組み直され出来上がる今。純然たる現実。芝居は嘘ではない。絵空事ではないのだ。


市販錠剤をしょっちゅう食べていた頃、正常な意識は瓶の中にあった。とりあえず錠剤を無心で口に放り込み飲み下し、多幸感の波が来た時にだけわたしは生きていた。自分が手を差し伸べられる対象だとは露ほども思わなかった。だってわたしはあんなに幸せだった。正直でいられた。
本当に幼い頃から本能的に嘘を重ねてきたと思う。100点のテストを見せられない子供だった。事実が事実たらしめられること、学校と家とふたつの世界の次元が繋がってしまうことが許せなかった。よくテストを破いた。あれはなんと呼ぶべき感情なのか、わたしは未だに答えを出せていない。絶望に近く諦めからは程遠い、深い悲しみに似た怒り。嘘と共にある限り、苛まれ続けるのだろう。
まったく別の世界に生きることを誰かに許されたいと願っている。昨日のわたしは昨日のわたしでしかない、という話を笑って聞いてくれる誰かに。虚実綯い交ぜの人生史を認めてほしい。『嘘と事実が混ざっている』という紛れもない現実を。
部活がある種、それだったのかもしれない。別の世界に生きることを許す存在。ただひとつ、愛おしい現実だった。あの場所では誰もが同じように許されていたはずだ。なにかから逃れ、打ち込むことを。



夜が明けていたので眠る。夜通し泣くのをやめたい。