おはようミッドナイト

「もう自分を傷つけるのはやめて!」
などと言われ、わたしが何と返したかは思い出せない。ただ、あのだだっ広い会議室の静まり返ったさまは今でも憶えている。あの日、普段生徒の立ち入らない場所でわたしは(わたしだけではなかったのだが)散々傷まみれにした手の甲を晒していた。夏服の頃だった。
理由を求められ、考え、考えて捻り出した言葉は「寂しかったんだと思う」というような類のものだった。それはきっとあのひとたちにとって「危険信号」で、わたしはその場所に縫い留められた。弁解は許されなかった。しかし実のところすでに語彙は場の空気によって掻き消え、ただわたしにはそれが限界だっただけだ。問い質され、いい子でいる必要はないなどとまったくお門違いの慰めを受け、そして解放された。(そんなことをしておきながら、大人と話す方が良ければ職員室に来なさいと言う。わたしの態度のどこを見ればそう思えたのか。ありもしない行間を勝手に読まないでいただきたいものだ)
そして数多の勘違いが横たわり、結果、わたしはあるひとの手を離してしまった。

普段は思い出さないよう努めているが、時折その場面だけが執拗にリフレインするのだからどうしようもない。今日は夜中の空気にでも当てられたのだと思う。夜中のこういうところが嫌いで、また好きでもある。朝には忙殺されることも、こうしてふいに思い出せるから。そのせいで泣く羽目になろうがそんなのは夜中の知ったことではなかろう。



苦しんでいるひとの出すSOSとはなんだ。そんなものがわかるのか?あなたに?
「あのひとは今普段見せない表情をしている、あれは間違いなく思い悩んでいるサインだ」などと言える人間がいたらかえって奇妙に感じられるだろう。もしわたしがそう言われたら、たとえその通り何かを案じていても「なんでもないよ」と返す。他者と関わる自分について「相手のことを深く理解していて、その理解に間違いがなく、よって今相手を救う資格とその必要性がある」と思い込める人間には決して踏み入らせたくない。決して。わたしにとって死にたくなるほど考えることというのは、そういう性質のものである。躊躇いのなさとは相容れない。
救われるのだからいいのではないか、というのもひとつ、考え方だとは思う。その助けの形がどれほどズレた形だろうと救いの手を取れば必ず事態は好転する、何かしら糸口が掴める。辛く苦しいのならどんな方法でもそこから這い上がりたいはずだ、という、幸せな者の考え方。
ただ、それが正しいとは思わない。少なくとも、わたしは経緯に拘ってしまうのでそうはいかない。だって現状はどうだ、あの時「これは危険信号であなたは辛さを感じている!」と捕まった結果、定期的に死のうとする日が生まれている。それによって失ったものがあったのだ。つまり善意が回り回って、未来のわたしを痛めつけることになった。もしあの時、さっさとあの場を去れていたなら。わたしの自殺企図の頻度は多少下がっていたと思う。

(推測でしかないだろうと言われれば元も子もないだろうが、それなら行ったことだけがすべて正しくなってしまうだろう。なにをして悪い結果になろうと、「あの時ああしなければもっと悪い結果になっていた可能性がある」なんて、そんな横暴な話があるか。だったら同じように、もっといい結果になっていたかもしれないと想いを馳せることも許されなくてはならない。つまり結局、過去をあれこれ言うなんてことは不毛なのだ。しかしわたしはそこから逃れられずにいる)

善く在るひとほど、助けとして投げた善意の縄が相手の首を絞める可能性を常に考えていなければならない。悪意は言わずもがなとして、善意もまた、誰かをきちんと殺すことができる。そちらの方が厄介なのも事実だ。残念なことに「よかれと思ってやった」という言葉より先をなかなか毅然と責めることができないのが人情というものである。こうしたら支えになれると思ってやったんだよね、悪気はなかったんだよね、ほら許してあげて。どうしてそれで許さなくてはいけないのかはわからないが、大概そうなってしまう。どれほど受け容れ難い形で差し出された善意だろうと、それが善意ならば受け取らない方が悪になる。悲しいことだと思う。「SOSを受け取った」と感じたら土足で踏み入ってもいいというわけだ。そんなのもう、ひとに会いたくなくなってしまうよ。
「そう言えるのも今お前が生きているからだ」というフレーズでなんとなく話を収めようとしたって、死んだわたしがどう何を語るかは知りようがない。死んだ後意識から解放されるのか、思考を手放すことが叶うのかもわからない。だから生きていることはそれほどまで美しく、当たり前とされる。軽やかに志を抱いて死ぬことと虚ろに生きていることを天秤にかければ、後者の方がいいと言う。死は絶対的なマイナスであり、生はとかくプラスと認識されている。中身は関係ないのだ。
黄泉の国ご案内お試しツアーでもあれば解決するんだろう。向こうはこんなところだ、と、確かに語れる生者がいるのなら。三つ瀬川は見えず、わたしたちはただただ死ぬまで生きているしかない。どうして死んでしまったら終わりなんだろうなあ。


夜は、昼より生命の力が強い気がする。
生きようと思うのも死のうと思うのも、いつも夜だ。まただれかの厚意でだれかが首を吊る。そして明日も陽は昇る。