恋から愛へ、あるいは破滅へ

カノーヴァの彫刻が好きで、アモルとプシュケの話を知ったのもそこからだった。言わずもがな、«アモルの接吻で蘇るプシュケ»のことだ。
ヴィーナスは美しいプシュケに嫉妬して、息子であるアモルに「プシュケがこの世で最も醜い怪物を好きになるよう仕向けろ」と伝える。アモルとはクピド、いわゆるキューピッドである。彼の矢に射抜かれた者は、次に目にした相手と恋に落ちる。
油断した隙に自らを矢で傷つけプシュケに恋をしたアモル。やがてプシュケは愛のため命を落とすことになる。もっとも彼女を蘇らせたのもまた、愛ではあるのだが。


恋が実った後、まっとうな形であればそこには愛が生まれる。たくさんの神話や昔話で、誓い合った清らかな愛は病を直し、平和をもたらし、多く死者を蘇らせてきた。無論それはファンタジーだろうが、確かに愛はたいていのことの材料で、愛を保つことはひどく難しい。保てないものだからこそ、たいていのことの材料になると言うべきか。


存在をただの永遠にしておくことはできない。絶えず創造と破壊が繰り返され断続的に続いていくそれが、長い目で見た時永遠に見えるだけだ。永遠を知っているとしたらそれは見間違いであることがほとんどだろう。べつにわかっていなくても、幸せではいられるけれど。
まったくの揺らぎなく変わらない愛があるか?いつだって綻びを結び直すことで維持している。惚れ直すという言葉があるように。つつがなく見えるふたりも、だいたいは共に過ごすことで無意識のうちにほつれを撚り直しているのだ。熱情には二つ種類があり、放っておいた時冷めるものと余計に燃え上がるものとがあるが、後者はそのほとんどが崇拝を含めたものである。つまり人間的に、対等に双方向にひとを愛すには、不断の努力が必要だ。人間同士の愛は時間が経てば薄れ、忘れられてしまうものなのである。
のちに人ではなくなったプシュケと羽根を持つアモルは、どうだったかわからない。偶像のような美しい愛だけが、彼らの間にはあったのかもしれない。まあ、わたしは人間だから知る由もない。少なくとも、わたしには無理だ。ひとひらの狂いなく穏やかで凪いだ愛だけを抱いておくことなどできない。不慮の事故によって生まれた恋ならなおさらだ。
恋の成就に伴って生まれる、愛を育む責任。片想いが楽だというのは、それを負わずに済むからかもしれない。恋をしている間は、相手が相手であることそれだけですべてを受け容れられる。盲目と言われる所以はそこだろう。
愛は時として、ひとをあまりに冷静にする。苦労して手に入れたものほど、その傾向は強いように思う。


だれかを愛している時、わたしはひどく空虚である。器は満たされず、髪を梳く指はなにをも掴まない。幸せとは程遠い感情に苛まれることも珍しくない。こんなものは一時的な感情であると勝手に折り合いをつけ、逃れるように育むことを放棄している。繰り返すべき愛の修復は億劫で、永遠を信じる無鉄砲ささえ喪ってしまっている。もちろん手に入れるまでは躍起になってあれこれ手を尽くすが、手元に来てしまえばもうわからない。わたしには愛がわからない。その作法を知らないのだ。
つまり恋の成就は恋の終わりであり、なおも恋に似た感情を持ち続けることは困難を極める。ゴールの後に終わりない道を示され、怯んだ隙に感情は砂になって風にさらわれていく。勝ち取るまでのゲームのようにだれかを望むことは失礼極まりない。そうわかっていても、結局もたついた足取りで求めることをやめられない。飼い方をろくに調べないのに犬を欲しがる子供に似ている。


生来、ひとを愛する資格がないのだろう。そのくせ幸せになりたいと思っているから厄介だ。幸せ、自分の知っている形のしあわせをすっぱり諦めれば話は早いのだがそうもいかない。馬鹿だと思う。結局しがらみに囚われているのは他ならぬわたし自身で、犠牲になったみなさんはわたしを殴りこそしないもののおおかた好き放題詰っていかれる。ごく稀にわたしとの間に信仰に似たものを見出す奇特なひとがいたりもするが、そっちの末路こそ想像に難くないだろう。わたしは神様ではないのだから。
ああどうしてわたしは、人間しか愛せないのだろう。不完全しか愛せないのだろう。
愛の名の下に落ち着いて見れば、火傷しかけながら恋い焦がれたものはあまりに儚げで矮小である。恋を通して見たものがどれほど拡大されていたか、誇張されていたかを思い知る。それでも残念なことにその感覚が嫌いではない。視覚を取り戻したあとの世界が、新たな色をもって拡がる感覚。要するにわたしは生粋の猫舌で、冷めかけのものを好む。そういうことだ。暖かいものを注いでやれなくて申し訳ない。いらなくなったら適当なゴミ箱に投げ捨ててほしい。本当は、まったくもって相手のことなど見ていないのかもしれない。相手をこの腕に抱いているという事実だけが大切で、見えるものを描くことに意味を持たせているのか、などと考えた。
だからわたしは、もうずっと幸せになれないのだろう。
嫌いではないということと幸せであるということはまったく異なる。たとえ静かでもきちんと燃えている愛が美しいことくらい知っている。放っておかないこと、修繕を続けていくことで火種を絶やさずいられることも知っている。しかしどうだ、現実は。わたしは虚ろなものに寄り添っているに過ぎない。


血の通ったものしか愛せないので、つねに変容するものを相手にしていなければならない。わたしもまた、変容の最中にある。愛は、変わらない基盤になり得るのか。なり得るのだろう。わたしたちが繁栄してその多くがしあわせに死んでいっているということが、すべてとは言わないまでも、おおかた事実なのだとしたら。
それこそ人ひとり生き返らせることができるほど、真っ直ぐ芯のある愛でだれかを想いたい。それをしあわせと呼ぶから、わたしは日々不幸せになっていく。