許し許され生き腐れ

 

最近、頭に触れられることが急に苦手になった。前はそうでもなかったのだが、なぜか突然。ぞっとするほど恐ろしく、手を振り払わなければ気が済まない。思えば頭に限らず、触れられることが全体的にだめになってきたようにも思える。

わたしから触れにいくことは構わないのに逆を受け容れられないというのは実に虫のいい話だと思う。双方向の矢印が自分のせいで成り立たないことをできるだけ避けていたい。べつに相手側からの矢印がない分には気にせずいられるが、自分から矢印を提供できないことはひどく耐え難い。

 

それは結局、最終的に相手を責めることができないからだと思う。『おまえが許しているのにわたしが許していない』という状態では、どうしても自分が劣って見える。寛大さで負けているような気分になる。そういう発想に至る時点で心はさもしいのだろうが、精一杯許せるようにいようと努めるそのこと自体は悪いことではあるまい(そう思っていたい)。相手もわたしも共に許すことができているならもちろん理想的だろう。しかしそれでは物足りない。『おまえが許していないのにわたしが許している』という状態を望むことをやめられない。優位性はいつも甘美で、まして人徳で勝るならそれ以上に決定的なものはないように思う。常に誰かを叩くことができるよう、許した分だけ強い武器を携える。まったくはずれた用途のために善人でありたいと願う。しかし善は善だ、偽物の善は偽物なのだから善ではない。かえって私たちは、純粋な善を求めるかもしれない。見えない刃を研ぐために。

 

なにかひとつ、だれかひとり素晴らしいものがあり、その周りは劣等感に苛まれ自滅するもの、無意識下にやがて下に見てやろうと画策し鍛錬を重ねるもの、崇拝して広い意味での同一化をはかるものに分かれる気がする。(あるいはまったく興味を示さないものもあるだろうが、それはいいとして)脆い、と思う。『ひとりでは生きられない』というフレーズは本当にさまざまな読み方ができると思っているのだが、『まわりで生きている人間の中に自分を位置づけなくては気が済まない』というのもそのうちのひとつだと感じる。その位置づけからどうしても逃れたくて、その位置づけにどうしても縋りたい。それは、人間の愛おしさにカウントできるだろうか。在り方をすべて愛すべきものであるとして、わたしは、限りなくすべてを愛していることができるだろうか。

 

いつかあなたを殺せるように、最善でありたい。許すことは許されることととても近いように思う。許されるために、許す。背徳的に善行を重ねて、生きながら腐敗していく。剥製のように静かに美しくあれるのならいいけれど、ただ表面は瑞々しく光り、中身だけが泥に似て色を失い崩れていく。なにかを許せないことがとても恐ろしい。その分だけ、持てる強さを失っているように思えてならないのだ。

際限なく武装したい生き物なのだ、わたしは。わたしたちは。『わたしたち』とぼかすことは甘えか、希望か。特に知りたくはない。きっと、どちらにも真実は宿っている。