いなくなったらごめんね

2017年になった。なんだかんだ3ヵ月近く放置していたらしい、結局生活は続いている。いいことなのか悪いことなのかはわからない。
なにもできなくなった。前からなにもできちゃいなかったけど、輪をかけて。

「お前に何がわかるんだ、と思うと本当にイライラする。こういうのが積もり積もって突然刺したりするんだろうな。そういう気持ちわかるよ」
わたしはその程度の価値しか持たない声で、どうにか叫びつつ見えない世界を見ている。
愛は理由にならない。屋根のある家で暮らせていても、生殺与奪は握られたままだ。
愛されないという嘆きはわかりやすいから簡単に受け入れられてそこには外付けのきれいな愛が注がれる。あるべき姿に戻る。
対してこの愛の形は苦手、量が多すぎて抱えられない、という嘆きは贅沢だと一蹴されがちだ。愛があるだけマシじゃないかと。まあ、マシなんだと思う。実際。それでも、課せられた沈黙の中で生きることは時折、冬の空の下で眠るように過酷だ。

また電話が来る。新年早々心配されている。ほんとうに申し訳ない。わたしの考えていることを一方的に吐露されなくてはならなかったひと。お給料のうちだとしてもごめんなさいと思う。でも電話はしないでほしい。なにもかも悪化させるだけだ。もう電話とインターホンは大嫌いになってしまった。正確に言えば、たかがそれだけのことにいつも怯えている自分が。

わたしはなにもわかっていないのだろう。年長者が語ってきたように。すべてのありがたみがわたしにはまだ解らず、何十年も先の未来でようやっとあらゆるものに感謝できるのだろう。
でもね、そんな生きてるか死んでるかもわからない未来で世界に感謝するために押し黙ったまま今を生きていたくないと思うんだよ。どうしてわたしだけこんなに無駄につらいんだよ。
すべては受け取り手の問題だ。渡した側がどれだけあたたかい気持ちで渡したとしても、受け取り手には棘の塊としてしか感じられないこともある。そっちの意向はわかるがわたしにこれは合わないらしい、と告げられたとして。あんたはこれこそ正しくて美しいものだと繰り返して押し付ける。わたしの流す血もあんたの目を通せば透明になってしまう。なかったことになってしまう。でもあんたに罪の意識はないし、実際それは罪ではないのだ。
たったそれだけのことで血を流すわたしが悪いのだ。そんなんじゃ生きていけない、社会はもっとつらい。徹底的に寄り添うことをしないまま、またそうやってわたしのつらさを定義する。寄り添われたって斬って捨てるけどな。何を今更。
そうやってどんどんわたしはここから先の世界が嫌いになっていく。でも社会の方が生きやすい人間だってきっといるって、あんたと暮らさなくてよくなってから見える世界にすべてを賭けている。
ただここにいるということに大変な労力を要するので、身動きが取れない。息をする、疲れる、無理。あんたのすべては罪ではない。
だが罪でないということは、傲慢でいてもいいということではない。そのはずだろう?

絶対に後悔する、自分にはわかる、お前のことはお前よりよくわかっている。
あんたが言ったなら、わたしは絶対に後悔しない。泣きながら過去を嘆いたりしない。あの頃ああしておけばよかったとは何があっても言わない。そうやって生きる。今のわたしを、わたしだけは絶対に間違っていたと否定しない。越えてきたすべてのわたしを愛することができれば、あんたの気づかないうちに、あんたに復讐することができるだろう。
ただ、ただ今は、呼吸がしづらい。わたしは弱い。17歳だからだ。この世に生まれて、たったそれしか経っていない。だから弱い。この場所ではどうしたって。
なあ、わたしたちはよく似ていて、何をしてしまうかわからない。それはきっとあんたもわかっていることだね。オーケー、投げるなら安全なものを投げて、安全な暮らしをしよう。わたしからの提案だ。