おまつりはおしまい

 

意味を与えること、与えられること、なにを欲しがるのか?

 

わたしは演劇部員だ。現役部員生活最後の文化祭が、もう終わってしまった。

引退が近づいてから「これももう最後だね」と言葉にしてきたことはたくさんあったけれど、文化祭の舞台ももうそこに含まれることになる。「思い出」になってしまうのだ。あまねくすべて。

また長い手記になってしまう。

 

なんの間違いか副部長になって、いつの間にか部長になり、あれよあれよという間にもうここまで来た。嘘だろ。時の流れが怖い。

やりたいことは全部できたし、全然できなかった。自分はいつも完璧な理想形だったし、ハチャメチャな反面教師だった。遺せるものは何もかも遺せたし、なにも遺せなかったよ、と思う。

すべてを完璧にこなす力はわたしにはなくて、誰かになにかを訊いてばかりいた。わたしが部長をしていた、などというのは名ばかりの話だ。その実部活を回していたのはわたしではない、これは絶対に。だってそうだろう。ひとりひとりが歯車で、はじめて回るのが組織であるとずっと考えている。でこぼこなもの同士で回って、機械は息をすることができる。きっとわたしの存在も間違いではない。そう思っておくために、必要な結論だ。

 

中学生の本番中、スタッフ札を首から下げて舞台袖で待機していた。幕の裏の暗さにもすぐ慣れてしまって、出入りするキャストの表情がよくわかる。瞳が澄んでいた。

収まりきらない客席のわずかな喧騒が、遠く示すなにか。その「なにか」が責めるように鼓膜を揺らして、わたしは自分の不甲斐なさを思う。

たとえひとつの歯車でも、もっとまともに動くことができたろう。歯車が嚙み合って動くということは、どれかひとつが鈍いと全てが鈍ってしまうということだ。いつの間にか泣いていた。わたしはひとつも、まともじゃない。自分がここにいることで損なわれたすべての可能性を、弔いたかった。殺してしまったものを見つけて、祈りたかった。

愛しい子たち、きみたちの芽を摘みはしなかったか。きみたちの受け取る光を、阻んではいなかったか。きみたちの伸びていく空は、そこにあったかい?

せめて養分になれたろうか、育っていく支えになれたろうか。問いかけは渦を巻いて、結局のところ涙になる。セリフの拡がりを聴きながら、もうわたしはいらないな、と思った。最初からいらなかったとは思いたくないから、「もう」と頭につけておく。これも弱さだ。それでも自分を愛せない。

 

自分の演技は、とても自然に、いつもの通りやることができたからそれはよかった。自分の舞台に精一杯でいられた。他のことが入る隙間はなかった。わたしたちが作った作品にきちんと、誠意を示せたと思う。

最終的に自分たちに帰属するものにさえ真摯に接するというのは、余裕の表れであるような気がして嬉しかった。自分のことは、いつだっておろそかになる。まずは自分のことから、とはあまり思えなくて、とりあえずいつも後回しにしてしまうから。ちゃんと自分のために、自分たちのためにものを作ることができてよかった。もう高校生活で、演劇部の役者として舞台に立つことはない。そう決めた。自分で決めたのだ。

 

死にどころを誤ってはいけない。ただ、幸せなまま世界を閉じたいと思う。そう願ってはいけないのか。いけないんだろう。あなたの幸せを構成するひとたちが、それを許さない。勝手に終わらせてはいけない。存在していればそこに他の存在が絡まって、こびりついて、どんどん一人ではいられなくなる。世界がそれを拒む。他と関わらないまま生き永らえることを、世界が許さない。だいたいのことは、許されていない。

くわえた飴の棒で、たわむれに喉を突く。まだ生きている。生きていることと許されているということは、少し違うかもしれないけれど、多少近い。

身の引き時を間違えないことだけが、最後の仕事だと思う。わたしがいない場所になんてすぐに慣れてしまうんだから。たとえ大切な歯車だったとしても、老朽化したら外れなくてはいけない。歯車を交換して、点検して、メンテナンスを続けていけば、機械は半永久的に生きていける。生かすべきは機械だ。個人ではなく、公。だれもがいずれ、退く。

 

(自分のことはもうずっと嫌いで、だから自分は何も残せていない。自身を愛せない人間が、誰かを愛せるはずがない。これは愛の真似事、愛情の紛い物。それを受け取らせていることへの罪の意識。無為だと思うことをやめられない。

愛した機械よ永遠なれ、崩れていく足場の下にはまた違うなにかが待っていたとして。それもまた一興だろう。生きていくとはそういうことだ。

いまは幸せだ。一過性なのかはわからない。ただ、いまは幸せなのだ。

それでもいいだろうか、それは世界に許されることだろうか。わたしが決めることではない、ただ幸せとは恐ろしいもので、中毒性が高いから枯渇するとすぐに新たなそれを探す。たとえどんな形のものでも、失わないように、損なわないように必死になる。

やっぱり、幸せなうちに世界を閉じてしまいたい。それは許されない。周りに傷を与えてまで自分の世界を終わらせるのは本意ではない。もういいよと言われてから実行したいけれど、その時にわたしが幸せであるかどうかはわからないだろう。周りが未練なくわたしの消失を許すこと、そしてわたしが幸せであることは、同じ時にちょうどよく成り立つものなのか?周りがなくては生きられない人間であるわたしが幸せなまま、誰のことも悲しませずいなくなることはできるのか?)

 

「わたしは誰も傷つけていないのだ」と思っている人間が一番厄介だと思う。それは絶対に無理なことだ。たとえ料理番組で作っているエビチリだって、誰かに料理上手な昔の恋人を思い出させ結果的に悲しませているかもしれない。これは誰も傷つかない善良なことだ!とあなたが思っているせいで、いらない傷をもらってしまうひともいるだろう。それでもできる限り傷つけないよう生きること、どんなに頑張ってもやっぱり少しは傷つけてしまうことを知っておくことが必要なんだと思う。そしてその事実と向き合うことも。

できる限り、余計な傷をつけさせないようにしたつもりではいる。まあ結局傷ついたか傷つかなかったかなんていうのは受け取り手の問題で、こちら側の努力そのものに価値はないのだけど。いろいろ考えてやったことが空回りすることも、なにも考えずやったことが誰かを救うこともある。悲しいけど仕方ない、そういう風にできているらしい。

どうか、どうか受け止めていてほしい。自信の持てない紛い物でも、確かにあたたかく与えたさまざまな想いを。悪意のない感情を。糧にして最後に一言、頑張れますと言ってほしい。未来に約束が欲しい。愛しい子たち、きみたちが頑張れるというなら、わたしが死にかけているわけにはいかないだろう?ここを去るわたしたちに意味を与えるのは、次を紡ぐあの子たちだ。やっぱり、意味が欲しいと願ってしまうよ。わたしはまだ出来損ないだから。

 

あと少しだ。あと少しで、終わってしまう。これは終わりの始まりに過ぎない。与えられた「終わり」を丁寧に歩むことは礼儀だろう。最善を尽くしたい。