でっかいジェンガ

 

積み重ねたものが崩れるのはいつも、少し悲しい。愛とか友情とかそういうものはまあ言わずもがなだろうけど、ほらジェンガとかホットケーキとかそのくらいだってどこか寂しいだろう。接してきたものには、程度の差はあれど必ず情が宿ってしまう。かけた時間が長いならなおさらだ。

 

ゆっくり足並みを揃えて共に歩んできた誰かがいるとして、その誰かがいなくなってしまったら、半身を失うようなものだと思う。

ひとりで立って歩いていたはずなのに、重心が傾いて、隣にあなたがいないと歩けなくなる、成り立っていた身体があなたなしでの生き方を忘れて、やがてあなたはわたしの半身まで連れていってしまう。委ねた半身がなくなる可能性を孕んでいるならずっとひとりでいた方がいいのだろうが、ひとは愛されたがり愛したがる。身体が引き裂かれても構わないと言う。

 

誰かが恋人は酸素だと言い、また誰かが恋人は麻薬だと言っていた。どっちも怖いな。慕いあうということはいつから、そんなに恐ろしいものになってしまったのだろう。最初からかもしれない。ずっと前からもう、そういうことになっていたのかもしれない。足は順番に出して歩く、息は吸ってから吐く。瞼を閉じれば暗くなる、ひとは愛せばそれまで。

 

愛し方があるように、愛されるのにもやり方がある。愛し方も愛され方も探さなくてはいけないから、忙しいのも仕方ない。

どっちが難しいかってそんなのはひとによるだろうけど、愛され方は案外すぐにわからなくなるものだと思う。いちど疑念を抱いたらすぐに、それまで受け取った愛のすべてが怪しいものに見えてくる。見えるかたちを持たないから思い込みひとつで簡単に崩されてしまって、元通り戻すのにはなかなか時間がかかる。もう、なんていうか、賽の河原かよ。誰だって鬼になる可能性を持っているからタチが悪い。こぼした一言が棍棒になって、ひとの積んだ想いを壊してしまう。ぜんぜん面白くない。世界のバグだ。修正パッチください。

 

 わたしは自分のことがもうずっと嫌いで、自分を好いてくれるひとほど難解な生き物はいないと思っている。それでも難解なものに寄り添っていると、融けるように少しずつ自分の見られ方がわかってきたりする。でもまだやっぱり嫌いだ、こんな血なんか全部出てしまえばいい。穴が開くほど手前で手前のことを見つめた結果が「なんだよこいつは」だったのだ。簡単なことだ。

 

「あなたには積み重ねたものがある」と言われても、本当にそうなのかがわからない。積み重ねは裏切らないと言うけれど、積めているのかが怪しいものには誰も価値を与えてくれない。本当にそれはわたしが積み上げたものか?それが崩れた時、泣いていいのはわたしなのか?

今日の次に来る明日が積み重なっていくとは限らないし、むしろ何かを削り取っている気がする。それでも暮らしていていいんだろうか。明日を明日として積んでいけない、意味のあるものにできる自信のないわたしが、この大きなゲームにいていい理由がない。

 

アイロンつけっぱなしだった。アー。