詩歌、中庭、一人一畳

 

お前の嘘がもっと上手ければいいのに、馬鹿みたいな顔をしないでよ

 

見ていられる雨だけが好きだ。休みの日もどこかに行かなければいけないんだろうと思う。誰かと食べるご飯というものがこの世界にはあって、誰かのために作ったはずだけど知らぬ間に消費されているご飯というものもある。でも別にどれが正しくてなにが間違っているということもない。生活はこの世のあらゆるところで営まれ、誰もが少しずつ死んでいく。遮光カーテンの向こうが幸せなのかどうか、他の人間にはわからない。でも、それは救いかもしれないと思った。

 

いままで詠んだ歌が200首を超えていた。

歌を詠もうと思って詠むのか、と訊かれ、どうなんだろうなと考えてしまった。ふいに見ているものから浮かんだ言葉を繋ぎ止めていくことは、意思による行動ではないのかもしれない。それは必然であるような気がする。詠みたいから詠むのではなくて、詠まなければならない。歌を詠んだり曖昧に笑ったりしていないとだめな体質なのかもしれない。

 

詩歌に必要なものとはどうにもならない感情だろう。死にたいほどだれかを恋しがったり、あらゆるものに絶望したり、そういう時に這う這うの体でたどり着く場所なのだろう、詩歌は。わたしはそうだ。毎日なにかしら泣いている。夜はまともに眠れないし起きている間は忘れっぽい、頻繁に睡眠の必要な使えない学生。知っている。だからわたしには歌が必要だ。息をするために、言葉を借りる。ここだって、毎日こんなにしんどくなかったらわざわざ作らなかった。本当は必要ないはずなんだ。全くロクなもんじゃない。

 

雨の止んだ窓辺で、キーを叩く指も止まっていく。誰もわたしをしんどいと言わない。わたしはよく笑うから。でも疲れてる?とはよく訊かれる、修行が足りない。疲れている場合ではないのだ。生きることだけで疲れていてはもう人間をやめるしかなくなる。人間をやめたところで行き場はない。それは絶対にそうだ。

 

なにも頑張れない、頑張れない。要するにもういっぱいいっぱいだ。生きることに精一杯で他のことができない。どうやってるんだろう、一生懸命キラキラしているみなさん。あんたがたはつらくてもしんどくてもそれを力に変えていっていくじゃないか。『この悔しさをバネに』という言葉は苦手で、もうずっと苦手で、だからだめなんだろう、美しいと推奨される生き方に向いていない。嘆くばかりでお前はなにもしてないと言われればそれまでなんだろうが、嘆くことすら必死に体力を削っている。体力があり余っている若人は嘆いてその後で前を向きさらに歩き出したりできるんだろう。なんだそれは。そんなことができるのか。ひたすらしんどい。嘆いて泣いていたら疲れ切って何もできない。わめく前になにかをしようとしたこともあったけれど、結局のところ絶対にどこかで潰れる。わめく時間が伸びるだけだ。バカだから。

 

ああごめんね、ごめんね。ごめんね。取りこぼしたものたち。

 

 

 

体温の入れものとしてきみが好き指先すこしふるえているか