豆腐などを食べる

 

夏は終わっても湿度は下がらない、あの日死んでしまった金魚の墓

 

夏休みという期間がわたしたちには与えられていて、そこにはさまざまな課題があったりする。まあそれは仕方ないし当然のことというか、そういう制約があって高校生という立場を保障してもらっているんだろうとも思う。ずっと昔から、わたしは〆切や期限に焦ることができない。期限が来てもぼうっとしている。手を付けても進まないことばかりだし基本的に集中することが苦手だ。座り続けて一生懸命集中するのはせいぜい5分や10分が限界で、ごく稀に長い時間集中できるとその日はもう眠ることしかできない。これはわりと致命的なことだ。そもそも学生をやっているのが間違っているし、まともに働けもしないだろう。

動いていれば大丈夫なのでピアノは弾けるし部活もできる。怠け者と呼ばれる。とても忘れっぽいし朝は起きられない。今までどうやって学生生活を生き抜いてきたのかわからない。もう充分よくやっている気がする。

 

例に漏れず9月1日から2学期が始まる、そしてついさっき日付が変わった。豆腐など食べながら部屋にいる。

ふと、愛し子たちのことを想う。何かを演じること、舞台をつくることを、もう長い間拠り所にしてきた。愛し子たちがわたしを慕ってくれているか、本心はわからない。わたしの上にいてくださった先輩方と比べてみても自分がどうしようもねえ有様を呈しているのはよくわかるので、正直うんざりされてしまっているような気もする。というか、そうだろう。自分の上がこんなんだったらとても嫌だ。あまりに何もできていなさすぎる。空回りしかしていない。

 

じゃあなぜこの立場にいるのかというとそれは部員の投票によるもので、だとすれば自信を持っていいのかもしれないけれど、それはあくまでもう何ヶ月も前の時点の総意に過ぎない。後悔はしてほしくない、しかしそこには齟齬も生まれるだろう。どうしようもない。きみが右往左往していては、皆笑えばいいのか泣けばいいのかわからないよ、ろにか。与えられたロールを生きなさい、幸せな未来までがそのシナリオに描かれているかは判らないけどね。

 

わたしのことなど二の次で構わない。元々出来損ないだ、本来ここまで心地いい居場所と愛されるべき立場が与えられているだけで僥倖というものだろう。ただ、わたしという存在が毒にならないことを、誰かの人生において何の力も及ぼさないことを願ってしまう。薬になろうなどとは思わないし、薬とはその実毒だろう。だから何もなくていい。なにも残らなくていい。わたしという存在を残したいと、願わないでほしい。そう思うのは傲慢かな、愛し子たちよ。この立場に立つ者の、他愛無い言葉の一つに過ぎないのかな。

 

口に出せば軽薄になることを知っているから、大切なことは文字に落とし込める。その認識は全身を毒してしまい、話している自分のことをとても滑稽だと思う。毎日制服に袖を通しているのが面白くてたまらない。悪い意味で。

記事ひとつ書くのにも、何度も違う作業を挟まなくてはいけない。ひとつひとつを順番に終わらせるのではなくて、すべてをゆっくりと進めることしかできない。結果常にぼうっとしていて、そういう人間が社会的な群れの中ではあまり利用価値がないこともよく知っている。

 

眠って、起きることができたら、学校に行く。

9月1日には、自ら死んでしまう人間が多いという。