星に祈る的それ

 

全世界オッケーという気持ち、秋刀魚の季節になることは悲しい

 

嫌いなものばかり増えるからいつの間にか『嫌い』という言葉を嫌いになってしまって、なんて言えばいいのかぜんぜんわからないんですよ。しんどいとか苦手とか言うようにしても頭の中身は汚いままだし救いようがない、なにかを嫌いになるということに伴う責任とかそういうものみんな疎ましいですね。

 

無邪気に応援してくれるひとに対してただただ申し訳ないし、応援されるべき人間というのはこんな真っ暗な部屋でこんなわけのわからない文章を書いていたりしないっていうのが真実です。それは絶対にそう、昔からそう。

ろにかは一ミリも頑張れていないんです。わたしは頑張っているつもりだし頑張っているけどそれは世界からしたら頑張りの範疇に入らない、だからこんなバカみたいな大雨の中で突っ立っていたりした。都市伝説になったかもしれない。

 

これはいつだったか担任が言っていたことなんですが『ブログやってるひといますか?どうしてブログ記事を書くんですか?』みたいな話があったんですよ。それでまあなんというかツイートの延長線上みたいなものをひとつ持っているというようなことを言ったら『ああなるほど』みたいに納得していたんですけど、じゃあそういう日記のようなものをワールドワイドウェブに載せる必要はあるのか的な話になって、ひとりでノートに日記書けばいいんじゃないかみたいなね、どうしたってそういう話になるわけで。

わたしはこことは別に日記もつけているんですよ、じゃあなんでここがある、というかなんでわざわざあんなに大量のTwitterアカウントを持っていたりするのかって思うんですけど、

 

『誰とはいわない誰かに送る』『どこかの誰かに届いている』という条件下でしか吐露できない感情は確かに存在するような気がしてなりません。

ひとりじゃやっぱりだめで、誰かに話さないといけないように出来ている。でもそこにいる誰かでは都合が悪くて、口に出すことも躊躇われる。言葉には魔力が宿るというし、わたしたちは『話す』ということにいつも臆病なのだろう。と、思う。

文字にすることでひとは簡単に自分に嘘がつける、温もりのある声ではなくて無機質な文字に感情を代弁させて、なにかの上限を突破しないように生きている。

 

逆にわたしだけこうなんだとしたら他のみんなはハチャメチャに強いということだけどひょっとしたらそうなのかもしれない。人間というのはハチャメチャに強くて、わたしだけが変異個体のようにこんな腐ったリンゴのような人格をしているのかもしれないです。

自分のためだけに生きたり誰かのためだけに生きたりできるほど高潔にはなれないので、枠にうまく収まっておくのが最善なんでしょうがそれすらできる気がしません。

腐ったリンゴはほぼ例外なく捨てられると思うのでもう少し待ちます。星に祈るなんて言うと聞こえはいいけれどその実これはただの怠惰、外から見ればただの怠惰。こっち側が見ているものなんて関係なかったらしいです。知らない誰かからどう見えているかが何より大切で、何より大切なものを守るために毎日武装しています。

どうしようもないことを知っていても、だいたいはどうしようもないままだし。どうしようもないことというのは高確率で喜劇になる、安直で堕落したなにかは結局喜劇に落ち着くんだということを見せつけるための生かもしれないですね。