馬鹿話

 

久しぶりに読んだけど
 

久しぶりにブログを開けた。しばらく前の自分が書いていたことをめちゃめちゃ笑いながら読んだ。バカだと思った。今も同じことを考えていて、引き続きバカだということがよくわかった。バカはバカなりに資源を浪費してこの世に生きているわけだが、バカにも悲しみはある。

 

自分のために生きることを推奨されるけれど、他人に優しくするやり方ばかり教えこまれてしまう。自分を愛せることが当たり前であるかのような態度で世の中はわたしに接してくる。順番がおかしい。本当は誰かを愛する前に自分を愛さなければならないんだろうが(というか自分を愛さなくて誰かを愛することなどできないんだろうが)その大前提を誰も教えてくれない。

 

そんなものは教わるものではないと言うのかもしれない。誰がって、誰かが。しかしわたしは人間なので本能が鈍っている、なにごとも教わったり、少なくとも示されたりされなければわからない。おまけに頭のつくりがひとより粗雑なので憶えたこともすぐに忘れる。

 

もしかしてひょっとして、忘れてしまっただけなのかもしれない。愛は怖いものではなかったのかもしれない。

かもしれない、かもしれない。いつも先は見えない。もうそれは、虚しいことですらないのだ。誰かを愛せないということはわたしの日常にすっかり染み付いて、もう何の匂いもさせていない。野菜が安くなる日が時折あるように、ポットの湯が沸くように、それは平穏の中に組み込まれている。今のわたしの心はとても凪いでいるけれど、誰もそれを責めることはできないはずだ。生き物は、環境に合わせて進化してしまうし。次第に生きやすくなるのは道理だろう。

 

恐れていたことが現実になる時、ひとは奇妙に安堵するように思う。これが事実なのだと理解した時の冷たくて重い感覚。しかしそれはひどく落ち着いて、浮遊感を伴わない。動悸を伴わない。逃れられないものに相対した時のそれを、ひとは覚悟と呼ぶのだろう。

 

誰かを愛する覚悟をわたしは持てない。まったく自分のことが好きではないからだ。自信のないものを誰かに勧めたいとは思わない。当たり前のことだと思う。

誰かに愛される覚悟も、わたしにはない。すぐに捨ててくれと乞うてしまう自分を誰かに愛させるなどしてはいけないことだ。頼む、迷わずに捨ててくれ。君は血迷っている、と、言いたくて、言葉を呑み込む。ひとの愛を無下にすることこそわたしが忌み嫌ったことではなかったか。だからわたしはいつまで経ってもバカなのだ。

 

ひとりでいいよ。誰にとっても、最後は迷惑になる。そういうことを考えるのをやめたくて生きているようにも思うけれど、わりと一生救われない気がしてきた。

とりあえず煎餅でも食べよう。