なにものかになれない二月半ば

そうかもしれないしそうじゃないかもしれない わたしはなにをあげられるだろう

いっそ空気にしておいてくれたらいい。見ているふりをして見ていない。見えていないのに見えているような素振りでとんちんかんな行動を起こす。満足しているのはあっち側だけだ。でもわたしだってあっち側になりたかった。誰かに手を差しのべている気になってただそれだけで勝手にしあわせになっていたかった。わたしのような人間が救われているかいないのかなんてすぐに忘れて気にしないでおきたかった。わたしのような人間がいることなど実感を伴わない知識でかまわなかった。ずいぶんひどい。かなしい。

 

(冥府はきっと地球にはなくてだからこんなにもどこへもゆけない。みんなのかなしみが漏出して冥府になるならそれがいい。そこには神様も誰もいなくて、あるのはただきれいに整えられたカウチソファとかそういうものだ)
 
「理解」という言葉を使うにはほんとうはもっときちんとした心得が必要で、結局のところ「完全な理解はできないけれど寄り添いたい気持ちはある」って言いたいんでしょそうなんでしょと思う。それならそうと言えばいいのにみんな向こう側に行きたくて、だからきみのことを理解していると言う。はじっこからみいんな嘘つき!嘘つき!中途半端な気持ちでさあだめだよ、そんなんじゃぜんぜんだめだ、なんでも与えられるつもりになっちゃいけないよ、そんなに強くてきれいな奴はどこにもいないんだから。きみは神様でもなんでもない、それとも慈母にでもなったつもりかと詰りたい。それをしないのはわたしがまださまざまなものに執着しているからで、回し車を回すだけのハムスターのように、どこかへ向かっているのだと思い込んで走る。終わりが見えない。冥府がない。どれだけの人間が、たどり着く先を見つけられるのだろう。どこかへ行ける人間と、どこにも行けない人間は、どちらが多いのだろう。どこかへ行ける人間の数が少しだけでも多かったらいいと思う。その分だけたとえ歪でも希望が生まれる。夜に潜む希望が。
 
季節柄、チョコレートを融かしている。甘いものはそこまでたくさんはいらない、あまり食べると罪悪感が勝ってくる。だからというわけではないけれど、自分のつくったものを誰かが食べてくれることは嬉しい。のだと思う。ひょっとして自分の罪科をひとに押し付けていることになるのではないかなんていう気もする。もし罪科が甘くて美味しいならそういうものなのかもしれない。すべてはわたしの杞憂で、世界はわたしが思っているよりずっと優しいのかもしれない。冥府を探さなくてもわたしはここで誰かに必要とされ穏やかに暮らしてゆけるのかもしれない。という、希望的観測。
 
だってそれを知る由はどこにもないのだ。