冬の公演が終わった

はじまったものは終わっていく。それでも明日はある。

わたしは演劇部にいるのだけど、この間冬の公演が終わった。
長い手記になる。 公演のあとは余計なこともたくさん考えてしまうのだ。
 
冬の公演はもう4度目になる。慣れたこともたくさんあるしいつまでも慣れないこともある。できるようになったこともあるし、できなくなっていったこともある。いろいろある。結局わたしは何も変わっていなくて、なにもかも変わってしまったのかもしれない。なんだろう。充足感の後に残る虚ろ。埋まることのない虚ろは時を経るごとに性質の悪さを増していく。厄介なものだ。反省とも違う。反省とはもっと清らかなもので、こんな憎悪のような色など持っていないものだろう。何もないものがそこにあるというのもおかしいけれど確かに、姿のない虚ろがどこかでぐるぐると渦巻いている。
 
部活は好きだ。完璧な人間がいないのだから、人間が集まってつくられる組織にだって完璧なものはない。それぞれが凹凸を持っていて、歯車同士うまいこと回るようにできている。そういうことがたぶん、好きだ。だれもがそれを認めて、歯車の仕組みを理解して、あんたの役割もあたしがやってやるよなんて言い出すこともなく、時折摩耗したところを修理しながら。そういうやり方でしか、ひととひととの集まったものは回せない。
 
真ん中のコンピュータがすべてを司るようなシステムはやっぱり難しい、とてもとても性能のいいコンピュータでないといけないし(いないわけではないのだけれど)、コンピュータはわたしたちを騙さなくてはいけない。わたしたちが意志で動いているのだと思わせくてはいけない。それを任せてしまうのは忍びなさすぎる。コンピュータだってたまには電源を落としたい。でもその時きっとわたしたちは非常用電源にすらなれないのだ。わたしたちは考える歯車でないといけないような気がしている。
 
わたしはもうだいぶ摩耗がひどく、年中油が足りないので変な回り方しかできなくて結果おかしなかたちに削られていく。おかしなかたちの歯車は考えるわけだ。これからどうやって回り続けるかについて。
 
わたしの中の空洞がわたしにキーを叩かせている。穏やかなことから考えればいい。
たとえばわたしは縫いものが得意だ。縫い合わせなければいけないものは多いし、そこそこに役立つ能力だと思っている(比喩ではない)。それだけじゃなく向上したことはたくさんあるし、もちろん裏方とか役者とかいう話でなくもっと人間の根幹のようなところにも変化はあったと思う。いろんな方向に変わりすぎてよくわからなくなってしまったけれど。でも確かにより光の当たる方へ、広がっている方へ進んできたはずだ。
結局そう考えるのも『かつてのわたしをわたしが認めなければ誰もあの時のわたしを認めない』というところに行きついてしまう。矮小な器の成せる業だろう。
 
さみしいことを言うと、かつてのわたしが持っていた真摯さは少しずつ褪せていってしまった。なにごとにもまっすぐ、向かっていたと思う。わたしにはわたしの『真っ直ぐ』が存在して、多少世間とズレはあれどきちんとそれに従っていた。紛れもなく誇りで、間違いなく正義だった。いまのわたしには正義がない。だからこうやって馬鹿みたいに文章を打つことしかできない。浮かんでいることをぜんぶぜんぶとりあえずぶちまけてしまって頭の中身を乾かすことしかできない。これは『正しさ捜し』なのだ。なにかなくなってしまった、もとい、なくしてしまった『正しさ』を当てもなく捜している。わたしという人間における普遍的な正しさとはなんだ。わたしは誰だ。
 
わたしが誰なのかを知りたくて、違う人間の人生を曲がりなりにも舞台の上でなぞっている。そこにいるのはわたしではない。わたしではない者が、わたしを捜す。歯車はぎいぎい悲鳴のような音を立てる。それでも回ることをやめられない。やめたくはないのだ。愛おしく尊ぶべき歯車たちの重ねてきた歴史、なにもかもを遺したまま進むことはできないし誰もが同じ歯車というわけでもない。この大きな機械は確かに鼓動を続けてきたのだ。脈打ちながら息をしてきた。
きみの記憶に残りたかったのかもしれない。どんな動機で歯車をやっているか知れない、それにはあまりにもそれぞれの理由がありすぎる。けれど、わたしはきっと、残酷な明日を塞いでしまいたい。明日は必ずやってくるだろう、でもそれまで生きているかは誰にもわからない。きみにわたしを憶えていてほしくて、わたしではないわたしのことも、わたしではないわたしだったわたしのことも。きみのどこかに巣食っていたい。わたしのいなくなる夢。いつか必ずわたしは歯車でいられなくなってしまう。

失ったもの手に入れたもの相殺させてここにいる。手に入れたものが勝っていればいいと思うけれど、それはわたしが決めていいことではない。わたしの知らないきみが決めることだ。
空っぽであるということが重たく肩にのしかかっている。すべての乖離のはじめに戻りたい気持ちがないわけではないし、これからあらゆるものを変えられるなんて気休めはもういらない。ただ少しずつ様相を変えながら動く大きな機械に身を投じて、考える。意思で動く歯車として。自らの身を呈してでも守る価値のあるこの機械について、その足はどこへ向かっていくのか。考えなくてはいけない。考えて、場合によっては回り方を逆にしたりゆっくりにしたりしながら、機械を壊すことなく生かし続けていかなくてはいけない。
そして、歯車をひとつたりとも殺さぬよう。
死んだ歯車で生きた機械など動かせないということはよく知っている。この機械の歯車であるうちは、寄る辺を忘れてはいけない。回り続けて壊れてしまっても、同じ形の歯車は二度とつくることができない。それはとても怖いことだ。怖くて哀しい。

さあ、わたしたちは、どう回ればいいだろう。