わたしはきみを愛せる

 
それ自体が盲目なんだろうな きっとね
 
わたしはきっときみを愛すことができるだろう。きっときみと出会ってもしきみを素敵だと思ったら、きみを愛すことができる。と思う。
 
それは間違いなく健全なことで、けれど愛はかたちを持っているのだろう。だれかを愛すと、疲れる。愛をきみに注いでしまうからだ。叶うならわたしは神様になりたかった、だれもを同じように慈しみ愛してみたかった。それはまあ来世以降に託すとしても、愛すことはまだ、できると思っている。
 
苦手なのは愛されることだ。自覚を持って明確に愛されること。
無償で見返りの求められない愛はたくさん受け取ってきた、だからべつにわたしはきちんと育ったしなにも能力自体に不自由はない。愛の譲渡能力に。でも発動条件:愛の枯渇が発生しても、わたしは愛を受け取ることをどこか躊躇いがちだ。
 
寂しさを昇華する方法はたくさんあって、わたしの場合それはたいてい『怒り』『自虐』に姿を変える。冬の日の吐息めいて痕が残らない、口から出たら虚空に消えるだけ。そういう儚さが『寂しい』という感情には似合うと思うし、わたしはそのくらいが一番心苦しくない。その代わりいつの間にか『涙を流す』『誰かに縋る』という昇華のやり方を忘れてしまった。寂しくて泣いたり、寂しくて誰かに縋ったりする姿は美しいと思う。そこにはあたたかな愛の譲渡があって、きっとそこにいるきみは、愛を取りこぼさず受け取ることができるのだろう。
 
愛されたいのはだれもみんなそうだ。神様の愛から剥離されても人間には愛されていたい、逆もまた然り。機械になりたいと思ったってその機械の動力は愛だ、きっと。
愛の入れ物、は、どこにあるか知る由もないけれど、空にしておかないように、必死に、必死に、愛を探す。探して、探して、見つけて、手を伸ばして我に返って、ふとした瞬間に自分が死ぬべきだと錯覚する。愛さなければ愛されない、けれど愛されなくては愛せない。ならどちらが先だ、わたしはきみの愛を受け取るにふさわしい器の持ち主か?わからない。きみが試しに愛してみてくれなくてはそんなことわからない。でももうそれすら怖いのだ。こんなに震える両手で、きみからの愛をわたしは地面にぶちまけてしまう。ぶちまけられた愛はまたきみの元へ還るだろうか。その行く先を見届けるだけの勇気がわたしには、ない。
 
それでも誰かを愛していたい、なんてただの我儘だと思う。
わたしはひとのかたちを保っている。誰かのためだけに生きられるほど優しくないし、自分のためだけに生きられるほど、強くもない。わたしの生きる(愛すべき)日々の中に、誰かを愛することが含まれていたらいい。静かに人間を愛したい。わたしは人間が好きなのだ。なにか異星人のような瞳で遠くから眺めた人間が好きだ。生まれ変わったら月にある臼にでもなるんだろうと思う。すこし遠すぎるなら雲か何かでいい、虹は少し美しすぎる。あるいは街灯に、あるいは誰かの髪飾りに。あるいは、また人間に。静謐できれいな感情に満たされているものにわたしはなりたい。
 
そのためにはこのすっかり空になった場所に注ぎ込む愛をどこからか調達しなくてはいけない。どこに売っているかな。一リットルいくらだろうな。