たぶん人間が好きなんだと思う

誰かといようとすること

ひとりでいるということは、どうしてもわたしをだめにする。らしい、と気づいたのは比較的最近のことだ。

 

わたしは与えることができない。いつも必ず享受する立場にいる。与えることのできないわたしはせめて、だれかに与えられるなにかをずっと待っているのだろう。それは孤独でも不幸でもないしなにより多数派の幸せの形のようにも思う。

 

誰だって誰かの言う通りにしたい。誰かの言うとおりにするということは、いちばん早く認められ満たされる手段だ。一切をその誰かの責任にできる。でもその『誰か』をだれもやりたがらない、きみになにか命令を与えて手っ取り早く幸せにしてくれる誰かはなかなか見当たらない。ことを、知っていて、それでも『誰か』を待っている。待っているひとばかりで溢れかえってちっとも寂しくないからなんだか幸せなような気がしてくる。奇妙だと思う。

 

頷いて行動することはたいてい、その結果が誰かのためになると信じて行われる。結局それは自分のために自分が幸せだと感じるためにやっているんだとしてもそれに気づかないふりをしていたい。自分のため、というのはどうしても独りよがりで汚いものに聞こえがちだ。だから自分のこと以外を考えていますという顔をしている。だとするとみんながみんな誰かのことを慮って動いているはずなのに、どうしてかだれも満たされた微笑みを浮かべていない。虚ろな目できみのために口角を上げる。そのあたり、『誰かのため』なんてやっぱり欺瞞なのかとも思う。

 

『誰かの言うとおりにすること』は『誰かのためになることをしている』という気持ちとよく結びつく。いつからわたしたちは『誰か』がいないと幸せになれなくなってしまったんだろう(わたしたちというくくりにしていいかはわからないけれど、少なくともわたしはそうだ)。学生はどこに行ってみても『あなた自身のために頑張ること』を推奨されがちだと思う。誰かのためになることこそが美しいと言うひとばかりに囲まれてさああなた自身のために走れって、そんなんわからない。わたしが斜に構えた見方をしているのは解っているつもりだけれど。ずっと、人間は最初から、誰かを笑顔にしたくて生きてきていると思う。生まれ落ちて泣いた時からそれはずっとそうで、結局死ぬまで治らない病気にも等しい。その病気を素晴らしいと評して今まで治療してくれなかったのにまったくやり方のわからない『自分のための努力』を突きつけられている、なんて、言わなくてもいい人間になりたかった。もうなにもかものはじめから、『誰か』に頼らないと満たされないように造られてしまったのだ。

 

誰かのために生きることも自分のために生きることもままならないので、とりあえずもう延々と自分を見続けているけれど精神が削れていくだけだ。ほんとうに、自分を見つめるのなんてほどほどにするべきだと思う。

 

ひとりでいるとさらに自分のことばかり見てしまう。世界を見渡してみて、自分の内側しか見てこなかったせいでひどく視力が落ちていることに気づく。だから誰かと一緒にいたい、誰かといれば衰えた視力も乾ききった涙も戻ってくる気がするからだ。気がするだけ。

 

なにを言いたいのかはわたしが一番よく分からない。わたしが知りたい。それはきっとこれからもそうで、だからだれもこんな文章の意味なんてわからない方がいいのかもしれないけれど適当にぼろぼろキーを打とうと思う。だれの赦しもいらない、はず、だ。