或る高校二年生の死

今日は3学期の終業式だった。つまり、高校2年生の学業生活が終わったということだ。クラスの目標のひとつとして「しあわせに」過ごすことが掲げられていたけれど、浮き沈みが激しすぎて正直どうだったかわからない。ある時は幸せで、またある時は不幸せだった。生きようと決めた直後に死にたくなって、死のうとしては逝き損ねてきた。結局ここまで生き延びたことの意味は見えないままで、また酸素を断りもなく吸う。すいません。このままでは来月18歳になってしまいます。
その前にちょうど節目の今日、考えていたことを適当に書く。奇妙な手記になるだろうから、掻い摘んで読んでもらって構わない。なんなら読まなくてもいい。ここはただの掃き溜めでしかないのだから。



・夢の話

語らいの場で頻繁に飛び交う「ひとに夢を与えたい」という言葉が、昔から引っかかって仕方なかった。夢を見るのはいつも彼自身彼女自身であり、他者がまるまる与えるなどと言うのは烏滸がましいと思ってしまう。(もちろんだいたいはそこまで傲慢なニュアンスではないのだろうが)きっと他者ができることは、「夢を見るきっかけを示す」程度が限界だ。
それだけではない。ひとを救いたい、助けたいといった類の言葉も同じで、「救われるよう手を貸す」「助かるよう手助けをする」が正しいだろうと思うのだ。助けることと、助かるよう手助けをするということがわたしにはまったく種類の異なるものであるように思える。ただ自信がないだけと言えばそれまでかもしれない。然るべき素質と努力があれば、非の打ち所のないヒーローのように一から十まで救うこと、夢を見せることもできるのかもしれない。しかしわたしはそのどちらも備えていないのだから仕方ない話だ。わたしはあまりに非力であり、怠惰である。



・気を遣う話

わたしは底抜けに優しくなりたい。というのには理由があって、常に自分の薄情さに辟易しているからだ。ひとの痛みが解るようになりたい。だれかの痛みを肩代わりするように死んでいきたい。
隣でだれが大怪我をしようと、自分のささくれが一番痛い。生き物ならそれは当たり前で、わたしはそういうことがひどく悔しい。ひとに寄り添うことは美しく推奨されるべきこととされているのに、それを完璧に遂行することは決して叶わない。なぜならわたしたちは「自分」と「他者」であり、そこに感覚の繋がりが存在しないからだ。どこまで行けどもわたしたちはそれぞれが「個人」で、結局最後はひとりになってしまう。あの子も、あの子も、わたしも例外なく。
ひとの涙がわたしには響かない。いつの間にかそうなってしまった。自分のことで手一杯で必死になっているうちに、痛み苦しみはあまりに独立したものであると認識していた。そして同時に、自分の言葉が意味を持たないと知った。自分以外の人間の訴えや叫びがわたしに届かないように、もがくあの子にわたしの声は聞こえていない。それなら何をしようが無駄だと思ったのだ。そして、そう考え至った己がなにより憎く思えた。あなたもわたしも傷を抱えている、という事実だけを認識しておきながら手を差し伸べることを放棄した。ならばわたしに価値はない。自分が救われないからと、だれかを見るのをやめたのだ。笑ってやり過ごして、ただ周りの傷が癒えるのを待つ。それは優しさでもなんでもなく、ただの保身だ。
だからわたしは、優しくなりたい。持てるものを投げ打ってしまいたい。どうでもいいと思っていながら手前を切り捨てられない自分自身を呪わしく思う。精神が肉塊を引きずりながら勝手に摩耗していくのも、それはひとえに運命でしかないはずなのだ。修復の必要性などない。だから潔くだれかのために、だれかが立ち直る踏み台となれるようにと祈ることは間違いか。自分の外の世界に、優しくありたい。他者の痛みを自分のことのように感じ取って、耐えられず死にたい。
(だれか、わたしを殺せるほどに傷ついてくれ。徹底的に善人でいたいという願いは同時に、救いの必要な人間を望む。確かにその事実だけは、訳語のない「死にたい」に結びつく。しかしそれでも優しくなりたい。わたしが悔いなく死ぬためにはだれかに泣いていてもらうしかないのだ。最低だと思う)



・生きていない話

今年に入って時折、教壇の上に奇妙な影を見ていた。
不鮮明だが子供のようで、ふいに現れては消えた。なにか伝えたがっていることはわかったが、なにを言いたいのかまではわからなかった。ごめんね、見知らぬ子。もう謝ったってしょうがないな。
旧い友人の葬儀に出た次の日、学校という空間の無理やり「生」に矯正した空気が奇妙に感じられたのを憶えている。捻じ曲げられて、生きている。生きているその裏側に死の匂いがした。だってうまいこと包丁刺せば全員死ぬからね、と、悠揚迫らぬ声で語る死神がいるようだった。今この瞬間もだれかが死にたがっているとはっきりわかった。しかしわかったからといって、わたしに何ができるわけでもない。(ここで前項に思考が飛んでわたしも益々死にたくなる。喜劇だ)わたしたちは閉じた場所で10代後半を食い潰す。輝かしい未来を示され、走るうちゆっくりと骸になりながら。
もうずっとわたしの7割くらいは、死にたい気持ちでできている。眠るよう死ねるならそれでいい。しかし死ぬなと止められる。ありがとう。わたしはみんなのことが大好きで、やっぱり死にたい。愛を注がれて、頭がおかしくなってしまった。
きっと愛されて育った子供たちは、それだけで半分死んでいるのだろう。愛されなかった子も同じように。両者は、違うところが半分死んでいる。だからというわけではないが、なんとまあ恐ろしいことに、愛はひとを生かし、そして殺してしまうものである。愛は生きる理由にも、死ぬ理由にもなる。しかしだれもそれを止められない。それが愛で、ひとは愛を追うようできているのだ。
生きよ、と命じることはたいてい、いわゆる「愛」に因るものだと思う。この世、つまり自分といつでも会える場所にいてほしいと思うこと。関係性の中に可視と肉体存在を求める。わかりやすく定義ができるように、最低限の要素が揃っていてほしいと考える。相手と常に関わっていたいわたしたちは、当たり前のようにそれが愛であると思っている。ああ、どこかしら「愛」されて生きてしまっているせいで、死に躊躇いが生まれるのだ。ならばその愛は足枷ではないか。死にたがりは思うだろう、生きているか死んでいるかの差だけで、わたしたちはどうしてここまで嘆き悲しまなくてはならない?愛されることを生きる理由にできない気質は、ほんとうに唾棄すべきものか?
しかし人間だった、わたしたちは人間だった。悲しいことに人間だったのだ!死を悼む生き物。長らくわたしたちにとって、だれかの死とは辛いものなのだ。外れ者のわたしはそれを不思議に思ってしまう、それでも敬意は払っていたい。だからいつも「きみのことは大好きだし感謝もしてる、ありがとう、さよなら」と言うしかない。自分の死などただ滑稽で、取るに足らないものとしか思えないわたしの精一杯だ。ほんとうに、なぜ今日まで生きていたのだろう。いつもと同じように笑いながら、くだらない話をしながら今日も生きてしまった。明日も生きているかもしれない。ごめんなさい。
教壇の上のあの子が、わたしたちの持つ死への思いが顕現した形なのならば。これからより不鮮明になっていくことを願う。わたしは無理だろうが、わたし以外のひとがみな、真っ直ぐ歩んでいけるように。もういいよ、死にたいのはわたしだけで充分だよ。みんな笑ってよ。


あと1年、あの場所で過ごす。蛍光灯の光に満ちた、狭く、愛に溢れた場所で。
ひとまずまだ庇護の下にあるわたしが愛や死を掘り下げることは、無為なことかもしれない。子供のくせにと言われればまったくその通りでしかない。ただ、許してほしい。これは呼吸することと同じなのだ。息を吸うように愛を想い、息を吐くように死を願う。そういう生命体だ。威張れることではない。虚ろに、雨垂れのように文字にしていくしか術を持たない馬鹿を存分に貶してほしい。


だってわたしが不安に苛まれた17歳でいられる時間は、もうあと少ししかないのだ。

恋から愛へ、あるいは破滅へ

カノーヴァの彫刻が好きで、アモルとプシュケの話を知ったのもそこからだった。言わずもがな、«アモルの接吻で蘇るプシュケ»のことだ。
ヴィーナスは美しいプシュケに嫉妬して、息子であるアモルに「プシュケがこの世で最も醜い怪物を好きになるよう仕向けろ」と伝える。アモルとはクピド、いわゆるキューピッドである。彼の矢に射抜かれた者は、次に目にした相手と恋に落ちる。
油断した隙に自らを矢で傷つけプシュケに恋をしたアモル。やがてプシュケは愛のため命を落とすことになる。もっとも彼女を蘇らせたのもまた、愛ではあるのだが。


恋が実った後、まっとうな形であればそこには愛が生まれる。たくさんの神話や昔話で、誓い合った清らかな愛は病を直し、平和をもたらし、多く死者を蘇らせてきた。無論それはファンタジーだろうが、確かに愛はたいていのことの材料で、愛を保つことはひどく難しい。保てないものだからこそ、たいていのことの材料になると言うべきか。


存在をただの永遠にしておくことはできない。絶えず創造と破壊が繰り返され断続的に続いていくそれが、長い目で見た時永遠に見えるだけだ。永遠を知っているとしたらそれは見間違いであることがほとんどだろう。べつにわかっていなくても、幸せではいられるけれど。
まったくの揺らぎなく変わらない愛があるか?いつだって綻びを結び直すことで維持している。惚れ直すという言葉があるように。つつがなく見えるふたりも、だいたいは共に過ごすことで無意識のうちにほつれを撚り直しているのだ。熱情には二つ種類があり、放っておいた時冷めるものと余計に燃え上がるものとがあるが、後者はそのほとんどが崇拝を含めたものである。つまり人間的に、対等に双方向にひとを愛すには、不断の努力が必要だ。人間同士の愛は時間が経てば薄れ、忘れられてしまうものなのである。
のちに人ではなくなったプシュケと羽根を持つアモルは、どうだったかわからない。偶像のような美しい愛だけが、彼らの間にはあったのかもしれない。まあ、わたしは人間だから知る由もない。少なくとも、わたしには無理だ。ひとひらの狂いなく穏やかで凪いだ愛だけを抱いておくことなどできない。不慮の事故によって生まれた恋ならなおさらだ。
恋の成就に伴って生まれる、愛を育む責任。片想いが楽だというのは、それを負わずに済むからかもしれない。恋をしている間は、相手が相手であることそれだけですべてを受け容れられる。盲目と言われる所以はそこだろう。
愛は時として、ひとをあまりに冷静にする。苦労して手に入れたものほど、その傾向は強いように思う。


だれかを愛している時、わたしはひどく空虚である。器は満たされず、髪を梳く指はなにをも掴まない。幸せとは程遠い感情に苛まれることも珍しくない。こんなものは一時的な感情であると勝手に折り合いをつけ、逃れるように育むことを放棄している。繰り返すべき愛の修復は億劫で、永遠を信じる無鉄砲ささえ喪ってしまっている。もちろん手に入れるまでは躍起になってあれこれ手を尽くすが、手元に来てしまえばもうわからない。わたしには愛がわからない。その作法を知らないのだ。
つまり恋の成就は恋の終わりであり、なおも恋に似た感情を持ち続けることは困難を極める。ゴールの後に終わりない道を示され、怯んだ隙に感情は砂になって風にさらわれていく。勝ち取るまでのゲームのようにだれかを望むことは失礼極まりない。そうわかっていても、結局もたついた足取りで求めることをやめられない。飼い方をろくに調べないのに犬を欲しがる子供に似ている。


生来、ひとを愛する資格がないのだろう。そのくせ幸せになりたいと思っているから厄介だ。幸せ、自分の知っている形のしあわせをすっぱり諦めれば話は早いのだがそうもいかない。馬鹿だと思う。結局しがらみに囚われているのは他ならぬわたし自身で、犠牲になったみなさんはわたしを殴りこそしないもののおおかた好き放題詰っていかれる。ごく稀にわたしとの間に信仰に似たものを見出す奇特なひとがいたりもするが、そっちの末路こそ想像に難くないだろう。わたしは神様ではないのだから。
ああどうしてわたしは、人間しか愛せないのだろう。不完全しか愛せないのだろう。
愛の名の下に落ち着いて見れば、火傷しかけながら恋い焦がれたものはあまりに儚げで矮小である。恋を通して見たものがどれほど拡大されていたか、誇張されていたかを思い知る。それでも残念なことにその感覚が嫌いではない。視覚を取り戻したあとの世界が、新たな色をもって拡がる感覚。要するにわたしは生粋の猫舌で、冷めかけのものを好む。そういうことだ。暖かいものを注いでやれなくて申し訳ない。いらなくなったら適当なゴミ箱に投げ捨ててほしい。本当は、まったくもって相手のことなど見ていないのかもしれない。相手をこの腕に抱いているという事実だけが大切で、見えるものを描くことに意味を持たせているのか、などと考えた。
だからわたしは、もうずっと幸せになれないのだろう。
嫌いではないということと幸せであるということはまったく異なる。たとえ静かでもきちんと燃えている愛が美しいことくらい知っている。放っておかないこと、修繕を続けていくことで火種を絶やさずいられることも知っている。しかしどうだ、現実は。わたしは虚ろなものに寄り添っているに過ぎない。


血の通ったものしか愛せないので、つねに変容するものを相手にしていなければならない。わたしもまた、変容の最中にある。愛は、変わらない基盤になり得るのか。なり得るのだろう。わたしたちが繁栄してその多くがしあわせに死んでいっているということが、すべてとは言わないまでも、おおかた事実なのだとしたら。
それこそ人ひとり生き返らせることができるほど、真っ直ぐ芯のある愛でだれかを想いたい。それをしあわせと呼ぶから、わたしは日々不幸せになっていく。

探してやってよ


きょうは一日中心臓が痛かった。時間が経つにつれ悪化した。馬鹿だなと思う。できない約束が脳を往来して、ずっと錯乱していた。まともに振る舞えていたとは思うけれど、結局友人各位に余計な心配をさせている。心配されることは幸せなことだろう。受け取り方が下手で申し訳ない。ひとに心配されたくない。相応のものを返せないからだ。わたしがわたしの級友なら、きっと放っておくだろう。そいつは誰にもなにも与えることができない、と。


正直であること、嘘をつかずにいることはとても恐ろしい。わたしは自分を信用しろと誰かに怒鳴ることができない。まずそれより前に、きっとわたしがお前を信用していないから。それは、自衛だ。自分を守ろうとしているのはわたしも同じで、誰かに何かをきちんと伝えようとしないのも口八丁手八丁でその場しのぎの誤魔化しばかりしているのも全部傷つきたくないからなのだろう。そういうところは反吐が出るほど嫌いで、なにかのために自分を投げ出せる人間を本当に美しいと思う。誰かのために生きることができる人間のことも。


自分以外のもののために全てを捨てられるほどわたしたちは強くないだろうし、自分の傷だけを避けられるほど小狡くもないはずだ。それでも、明らかに小狡い方にメーターが振れていることくらいわかる。わたしのせいにならなければ何でもいい。わたしのせいになるなら絶対にだめだ。『でもそれはわたしのせいじゃない』と言いながらいつも怒っていた頃から何も変わっていない。
一度転んだらもう終わりだった。転び続けないで走ることにしか意味はなかった。手を差し伸べられたら終わりなのだ。そちら側の人間になってしまっては。ずっと、誰かに助けられて正しく歩んでいく人間がひどく憎かった。お前はもう躓いたのに、どうしてまだここにいられる?手の取り方を知らないわたしは、立ち上がれないまま蹲っているのに。親切な誰かが声をかけてくれても、わたしにはなにもできない。声の出し方を忘れている。自力でもう一度走り出そうとしているうちに、足は錆びつき、喉は潰れて、勝手に不自由になって勝手に卑屈になっていく。救いようがない。

たとえば、こういう話がある。
明るくて友達の多いふたりの子供がいる。片方はとても絵を描くのが上手で、片方は性格の他にこれといった取り柄がない。
前者の子供の『いいところ』を子供に探させたら、そのほとんどが最初に『絵が上手い』と答えた。後者の子供については、『明るくてみんなと仲がいい』という意見が多かった。
能力は、人格より先に印象に残ってしまう。『絵が上手い子』は明るかろうが暗かろうがそう評される。そしてその先を探そうとしない人間ばかりが周りにいると、結構な確率で本人にとってその先がきつくなる。技能を失うことを恐れる。そこ以外に自分を見つけられなくなる。それに対して、『きみは明るい子だね』という肯定を受けてきた人間の方が柔軟性を持てる。
根底にあるものを見つけて認めてやることは、能力を褒めることより難しい。しかし、見つけてやらなくてはいけない。今持っている能力を伸ばしてやるには、そちらの方が正しいのだ。今なら、そう思える。

優しさを信じることができるというのは、おそらく当たり前に備わっているはずの最も大切な才能だろう。あなたは多彩なひとだねとよく言われる。褒められているのだろうし、そう思ってくれることは嬉しい。ただ自分では、その全てを『代わり』なのだと思う。自分の人格を愛せないわたしが、都合よく愛されるために磨いてきたもの。誰かよりもなにかができれば、振り向くひとは増える。振り向いただれかの手を振り払うところまでがワンセットだ。最悪のパターン。一周回って笑えてくる。何がしたいんだよ。
代わりのものに縋りながら、他になにも出来ないことを呪う。立ち上がり方を知っていれば、他と同じように走れればそれでよかった。けれどもう今更手にしたものを捨てることもできずにいる。


文字でしか肝心なことを語ることができない。口に出すのはどうでもいいことだけでいい。日常において言葉は空疎だ。空疎なものに乗せた感情は、墜落して潰える。