いつ、どこの昔話

冬休みが終わってしまった。わたしはまだ冬休みという概念がある世界にいる。ことは、救いなのか。『休んでいいよ』の次には『休んだんだから文句言うなよ』がやって来るだろう。休みでもそうじゃなくても外はクソ寒いしパンジーは変わらずに咲いている。わたしはなにもできない。何に謝ればいい?ヘイ神様仏様、そこにいるなら教えてくれ。

午前中を呪いながら太陽に悪態をつく。日が沈んでからあらゆることの実感が湧くわたしはおそらく、ひとの暮らしに向いていない。遅刻がへんに多いせいで善良なひとに余計な心配をかけている。
おとなしく家にいて世界に文句も言わず、静かに人生を浪費するのが正しいのかもしれない。人生を浪費。始まった時から浪費だった、とは、思いたくない。きっと10年くらいはまともだったろう。あの頃わたしは何にでもなれた。たとえ受動的な態度でいても、未来とは輝かしかった。可能性はたしかに、生きれば生きるほど削られていくように思う。

剃刀は利き手で持つものだけど慣れていたってたまに手は滑る。よっしゃ景気付けに一本!みたいな気持ちで生きているのがいけない。傷とはチューハイではないのだ。
なによりも確かな赤色を浮かべてわたしはーーわたしは。ぜんぜん知らない国の東側をずっと歩いたような場所を思い浮かべて、脈絡もない昔話のことを考える。
意味のない話のことを。



「もう何年も使ってきたクッションは潰れていた。暖炉に薪をくべながら相槌を打つ。
ごめんね。でも日が昇ったらお家に帰らなくてはならないの、と、あの子は笑顔を崩さない。長い三つ編み。睫毛の光。木の燃える音。そっか、仕方ないね。
気づけば窓の外は雪で、今夜の冷え込みは酷いだろうと考える。
お前はあの子が好きだった。
見上げた空が落ちないままずっと世界の天井に張りついていて、お前はため息をついた。あれさえ降ってくれば、きっと永遠に夜のままなのに。

だからお前は魔法を使った。

疲れきった夜空が家も道も村人たちもお前もあの子も、攫うように飲み込んでいく。闇に飲まれて沈んだ村には、ただ静寂が訪れた。陽の光は射し込まず、月明かりは水面で散った。
ここは古い村になって、昏昏と眠り続けた。すべてが等しく穏やかであることを夢の中で知り、それを幸福と呼んだ。
村を封じたお前の話をしよう。
――たったひとつ、昔の傷痕に血が滲んで、目ざとい鮫が嗅ぎつけるかもしれない。お前はそれを忘れていた。

永い時が流れた。村を満たすものといえば平穏と暗闇だけで、誰も変化は望まなかった。
近づく泡の音も聞こうとせずに、お前たちは目覚めない。そしてもう逃げられないという時にやっと気づく。どうやら僕たちの村は狙われているらしい。
それでも、みなが暖かい孤独の中にいる。足掻いて失われるくらいなら、おとなしくしていよう。嘆いてもどうしようもない。それぞれがそれぞれに、ひとりであることを尊ぶ。永遠にここにいる。それでいいと思い至り、再びの眠りについた。

眠りの中は優しさでぬかるんでいる。思い出すのは雪の晩だった。
受け取ったもの、与えたもの。世界は思っていたより優しかったろう。
長い三つ編み。睫毛の光。木の燃える音。その両手に憶えているのは柔らかくてくたびれた、懐かしいクッションの手触り――
眠るお前たちの脊髄を、鮫の歯が、音を立てて砕いていく。

引き裂かれる肉。

飛び出す骨。
落ちていく臓器。
判っていたのに叫ぼうとして、お前は自分の弱さを知る。言葉を失くしていることに気づく。声にならない泡が口の端から溢れていく。ああ、ここはなくなってしまうのだ。村は。光は。あの子は。

だが、不思議なことに痛みはない。
食い散らかされていく自分をひどく冷静に、他人事のように見つめている。意識だけが奇妙に残っていて、あの子が――きみがとっくの昔に破片になって、辺りを漂っていることも認識できる。
ほら、手を伸ばせばきみの肉片に手が届く。あんなに愛したのに、ついぞ想いは告げられないままだ。夜空を落としたあの日から。
お前は思い出す。
そうだよ。僕はたったひとり、きみが欲しいだけだったのだ。たとえ一言も話せなくても、きみに――日が沈んでいる間は、きみが側にいてくれたから。
僕ら最後まで、一緒にいたね。

魔法使いのお前は禁忌を犯していた。
村沈めは禁じられた魔法だった。すべて夢ではなかった。
だれにも赦されずお前はいなくなった。


さて、これでこの話はおしまいだ。
――はは、どうして泣いているの?おやすみ愛しい子。いい魔法使いになるんだよ」



魔法使いになれないわたしは、どうして泣いているんだろうなあ。人生がしんどい。

いなくなったらごめんね

2017年になった。なんだかんだ3ヵ月近く放置していたらしい、結局生活は続いている。いいことなのか悪いことなのかはわからない。
なにもできなくなった。前からなにもできちゃいなかったけど、輪をかけて。

「お前に何がわかるんだ、と思うと本当にイライラする。こういうのが積もり積もって突然刺したりするんだろうな。そういう気持ちわかるよ」
わたしはその程度の価値しか持たない声で、どうにか叫びつつ見えない世界を見ている。
愛は理由にならない。屋根のある家で暮らせていても、生殺与奪は握られたままだ。
愛されないという嘆きはわかりやすいから簡単に受け入れられてそこには外付けのきれいな愛が注がれる。あるべき姿に戻る。
対してこの愛の形は苦手、量が多すぎて抱えられない、という嘆きは贅沢だと一蹴されがちだ。愛があるだけマシじゃないかと。まあ、マシなんだと思う。実際。それでも、課せられた沈黙の中で生きることは時折、冬の空の下で眠るように過酷だ。

また電話が来る。新年早々心配されている。ほんとうに申し訳ない。わたしの考えていることを一方的に吐露されなくてはならなかったひと。お給料のうちだとしてもごめんなさいと思う。でも電話はしないでほしい。なにもかも悪化させるだけだ。もう電話とインターホンは大嫌いになってしまった。正確に言えば、たかがそれだけのことにいつも怯えている自分が。

わたしはなにもわかっていないのだろう。年長者が語ってきたように。すべてのありがたみがわたしにはまだ解らず、何十年も先の未来でようやっとあらゆるものに感謝できるのだろう。
でもね、そんな生きてるか死んでるかもわからない未来で世界に感謝するために押し黙ったまま今を生きていたくないと思うんだよ。どうしてわたしだけこんなに無駄につらいんだよ。
すべては受け取り手の問題だ。渡した側がどれだけあたたかい気持ちで渡したとしても、受け取り手には棘の塊としてしか感じられないこともある。そっちの意向はわかるがわたしにこれは合わないらしい、と告げられたとして。あんたはこれこそ正しくて美しいものだと繰り返して押し付ける。わたしの流す血もあんたの目を通せば透明になってしまう。なかったことになってしまう。でもあんたに罪の意識はないし、実際それは罪ではないのだ。
たったそれだけのことで血を流すわたしが悪いのだ。そんなんじゃ生きていけない、社会はもっとつらい。徹底的に寄り添うことをしないまま、またそうやってわたしのつらさを定義する。寄り添われたって斬って捨てるけどな。何を今更。
そうやってどんどんわたしはここから先の世界が嫌いになっていく。でも社会の方が生きやすい人間だってきっといるって、あんたと暮らさなくてよくなってから見える世界にすべてを賭けている。
ただここにいるということに大変な労力を要するので、身動きが取れない。息をする、疲れる、無理。あんたのすべては罪ではない。
だが罪でないということは、傲慢でいてもいいということではない。そのはずだろう?

絶対に後悔する、自分にはわかる、お前のことはお前よりよくわかっている。
あんたが言ったなら、わたしは絶対に後悔しない。泣きながら過去を嘆いたりしない。あの頃ああしておけばよかったとは何があっても言わない。そうやって生きる。今のわたしを、わたしだけは絶対に間違っていたと否定しない。越えてきたすべてのわたしを愛することができれば、あんたの気づかないうちに、あんたに復讐することができるだろう。
ただ、ただ今は、呼吸がしづらい。わたしは弱い。17歳だからだ。この世に生まれて、たったそれしか経っていない。だから弱い。この場所ではどうしたって。
なあ、わたしたちはよく似ていて、何をしてしまうかわからない。それはきっとあんたもわかっていることだね。オーケー、投げるなら安全なものを投げて、安全な暮らしをしよう。わたしからの提案だ。

月月月月月

 

幸せな初恋の記憶があれば、その後も少しだけあたたかい気持ちでいられると思う。はじめて誰かを好きになるということ。叶っても叶わなくても、人生のいろんな数値が、ちょっぴり底上げされる。それは本人が気づかない程度にかすかなもので、だからこそ控えめにそのひとを彩るのだろう。淡い光をたたえたあの子は、きっと幸せな思い出を持っている。そう思うだけで、救われる気がしないか?

だれかにときめきを覚えること、憧れることほど瑞々しい感情はない。恋や愛という言葉では重たすぎる、気づいてしまう前のまだ若い想い。やがてああこれが恋なのだと知って、加速していく。熱を伴う。堪えきれなくなる。ああなんて素敵!人間はなんて素敵なんだろう!初々しいふたりを見ているだけでお腹が満たされる気がするよ。そういう妖怪なのかもしれないな。

 

描かれたものはみな綺麗に見えるけれど、恋とはその実ひどく爛れたものばかりだ。美しいものは押し並べて次第に濁る運命にある。ぴかぴかなまま残しておくためには掃除し続けるしかないけれど、掃除をすればしただけの雑巾が残る。汚れきったものがたくさん生まれる。だれもそれを、省みない。悲しいことだ。

そう、夢を壊されたひとほど、もっと大きな夢に焦がれていたんだなあと思う。次こそは幸せでいられるはずだと目を輝かせる。事実そんなことはなくて、過度な期待を未来から前借りしたせいでむしろ虚無感に苛まれたりするのだけど。わたしはそういうひとを恐ろしいと思った。そして愛した。愛されず生きることを忘れたひと、もうひとりでは立っていられないひと。脆いひとを、支えているわたし。足蹴にして、さらに愛させるわたし。満足のいく構図だった。懐かしい話だ。

 

明日はとても大きな月が見られる日だそうで、でも雨かもしれないらしい。雨の気まぐれさは嫌いではないけれど、肝心なところさえそういう態度だとちょっと笑える。なにも明日じゃなくたってよかろうに。

月は好きだ。太陽は眩しすぎる。「月が綺麗ですね」という言葉は陳腐になってしまったけれど、確かに愛しいひとと見たくなる光だと思う。

あなたを愛しているとそれとなく伝えたい時、選ぶ言葉はこんなにも美しい。わたしはなんと言うだろうか。黙っているかもしれない。穏やかな沈黙は、至上の愛だと思う。ふたりで互いを(いとしい)と思いながら、身体を寄せていたい。好きあった者同士は体温を言葉にできる。充分に伝えあえる。あなたが鼓動を聴いている時、わたしもまたあなたの鼓動を聴く。どうしてかそれだけで、なにもかもから赦された気になれる。委ねあえば、もう、そこで世界は終わってしまうのだ。幸せなまま。満たされたまま。本当に、死んだっていいと思える。死にたくて、だれかを愛しているのかもしれない。だとしたらめちゃくちゃだ。世界は最初からめちゃくちゃだった。わたしたちも、例外でなく。

×××、君にも見えていますか?ねえ、君と月を見たいと思う。生きてくれと君は言うけれど、やっぱりわたしは死にたいんだ。君に愛されているうちに。ああ、でも君はそういうあなたも好きだと言うんだろうね。知ってるよ。君はそういう子。恋に盲目で可愛い君。君がおおきくなるまで、わたしはここで待っていよう。待たせた分の幸せを、必ず持ってくるんだよ。わたしを待たせるんだから、そのくらい。ね。

 

幸せであってもいいのだと、自分に言い聞かせなくてはいけない。手にした幸せを恐れて、手放してしまわないように。手前が傷つくのは手前のせいだが、相手に傷を与えてはいけない。それこそ、手前にそんな資格はないよ。

幸せであってもいいのだ。きっと。それは愛しいひとに認められて、はじめて真実になる。

恐れてはいけない。恐れてはいけない。

いつから涙を、つらく悲しい時にだけ流すものだと思っていた?満たされた心から溢れた幸せも、涙に変わるものだろう。

 

もう、許容量を超えていたらしい。

遠く、月が滲む。